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コラム 樹海


 九九年、マナウス市で六十七歳で亡くなった川田幸子さんの短歌がある。「脱耕と死と出稼ぎに人減りし村を包みて暗き夕暮れ」▼来年入植五十周年を迎えるロンドニア州トレーゼ・デ・セテンブロ(旧グヮポレ)植民地を詠んだ歌である。川田さんは、アクレ州キナリ植民地から家族とともにグヮポレに転住した人だ。筆舌に尽くしがたい辛酸をなめた、という表現があるが、川田さんは歌にした▼戦後の日本移民は今年五十周年、来る七月、記念式典が行われる。グヮポレ移民は、戦後の〃はしり〃だ。五四年、三十家族が入植後、転住者、呼び寄せのほか、後続はなかった。海協連が派遣した医師が報告した。「ここの移住者には、医薬品でなく、食糧、栄養剤が必要だ」▼現地文協の松野克彦会長は、最近発行された五十年史に書いている。「言葉の壁や慣れない農作業と戦いながら悲喜こもごもの毎日を過ごしてきた。戦前の笠戸丸移民の縮図ともいえる」と▼最初、ゴム栽培、養鶏、野菜、ピメンタ、果樹と、営農は試行錯誤を繰り返した。営農資金を得るため、日本から持参した、ブラジル人の喜びそうな品物を売った▼半世紀の歴史のなかで、植民地での物故者は幼児二人、青年三人、六十歳以下の壮年四人。過去の環境の苛酷さを物語っているようだ▼ともあれ、今、町部在住を合わせ、およそ半数の入植者家族(の子孫)が幾多の苦難、紆余曲折を経て、植民地を第二の故郷だと言っている。「よかった」と安心感を覚える。(神)

03/05/23

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