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新米記者の体験レポート=今、YOSAKOIソーランが始まる=(上)=この踊りが地域を変えた=日系社会もその輪の中に

6月5日(木)

「私たちは”南半球のリオのカーニバル! 北半球のYOSAKOIソーラン祭り!”を目指しております」。二百万人を動員するこのイベントを立ち上げた中心メンバー、長谷川岳さんの言葉が、Eメールで本紙に届いた。その熱い情熱は、地球を貫きブラジルまで届く。七月二十日、サンパウロ市で第一回YOSAKOIソーラン祭りが開催される。五月三十一日現在、十一チーム三百五十人の出場を予定。この数は、今後増えることも予想される。今回から、ブラジルでYOSAKOIソーラン祭りが始まる様子を体験レポートする。

 五月七日午後七時、地下鉄アナ・ホーザを降りた。そこから、歩いて五分のところに美容院「SOHO源気」がある。入って少し待つと、飯島秀昭さんと出会った。
 「君、YOSAKOI、ウチらとやるんだって。ウチらは、週三回練習しているけど大丈夫?」。背中を叩ながら、飯島さんが質問。その勢いに押され、「練習を見てから、考えさせてください」と、思わず答える。
 飯島さんは、ブラジルYOSAKOIそーらん祭り実行委員長を務め、大手美容院チェーンSOHOを一代で築き上げた社長。丸めがね、丸坊主に、あごひげを生やした風貌は、一度見たら忘れられない。
 大阪の知人に、飯島さんがあるビデオを紹介された。このビデオをきっかけに、ブラジル祭りの幕が開く。
 『稚内発学び座―ソーランの歌が聞こえる』。舞台は北海道稚内市南中学校。雪が降る真冬のオホーツク海で、生徒たちがYOSAKOIを踊る映像で始まる。
 校内暴力が横行し、教師が生徒を恐れる荒廃した中学校。その荒廃は、ナイフ殺傷事件を招き、地域住民に学校の現状を知らしめた。稚内市は、漁業の街。二百海里問題などで漁獲量が減少、大人たちが自信を失い、それが子どもに悪影響を与えていた。この事件をきっかけに、学校と地域住民たちが真剣に関わり合い、学校が好転していく。この踊りはその中で、地域住民と学校、教師と生徒、生徒同士、世代間の掛け橋として存在した。YOSAKOIを通じた様々な交流が、南中学に再び活気をもたらした。
 飯島さんは、ここでみたYOSAKOIに日系社会活性化、ブラジルの若者に欠ける集団行動の大切さを見出す。
 「日系の若者が、文協とコンタクトする機会が少なくなってきており、その機会を作りたい。若者が、この踊りを通じて、少しでも日本の文化と触れ合う機会があればと考えている」と飯島さんは意気込みを語る。
 美容院内、イタリア系が多く見える。踊りは、日本舞踊の先生がブラジルのバレーダンサーに指導、それをダンサーが現在指導する従業員のアニ―さんに伝えた。ルーツは日本舞踊だ。
 飯島さんと美容院のイスに座っていると、突然スピーカーから巨大な三味線の音が聞こえた。腰を曲げ、手でオホーツクの荒波を表現する動きを二十四人がそろえる。網を引く動きを見せながら叫ぶ「ドッコイショ!」という声が、どこかぎこちない。ブラジル人が、日本的なことをする違和感を感じたが、彼らは真剣な目で踊っていた。周りにいる三十人ほどのブラジル人たちも、一様に無言で観賞していた。これが初めて生で見た印象だ。
 SOHOは、〇二年六月頃からこの踊りをはじめた。希望者を募ったところ当初二百人にのぼり、踊りを見て百六十人に絞った。現在は、精鋭ぞろいの二十四人にまで絞って練習している。現在、希望者が多いため、もう一チーム作った。
 「六月には札幌の大会を見に行く、本場の洋服、化粧、雰囲気を勉強し来年に生かしたい。来年は、イビラプエラの体育館で八千人規模の大会を開くのが目標」と、飯島さんは今後の展望を語った。
 「佐伯君ちょっと飲みに行くか」「はい」。この日、練習ジャージに着替えることなく、その場を後にした。
 西洋と東洋が融合したこの踊りに、また一つラテンの血が加わった。組織的な行動を得意とする日本からの輸入文化を、自主性を尊重するこの国でいかに根付かせるか。今、YOSAKOIソーランが始まる。
    (佐伯祐二記者)

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