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移住坂―神戸と海外移住―(1)=履きなれない靴で=収容所(当時)から埠頭へ

6月18日(水)

 「神戸から日本移民が出発したという史実を風化させてはならない」――三年ほど前、神戸市で、移民乗船記念碑建設や旧移住センター存続のための、市民運動を活発化させようという運動があった。その一環で『セルポート』紙に「移住坂―神戸と海外移住」が連載された。神戸市、旧移住センター、渡航準備の移民、出港、と現在ブラジルに在住している日本人にとっては、自分の「肌」に触れるような感じを抱かせる記述がある。運動に尽力した楠本利夫・立命館大学客員教授(元神戸市国際部長)と話し合い、十四回にわたる本紙転載を決めた。

旧海外移住センター(昭和30年代初期)

旧海外移住センター(昭和30年代初期)

 「一九三〇年三月八日。神戸港は雨である。(中略)三ノ宮から山ノ手に向かう赤土の坂道はどろどろのぬかるみである。(中略)この道が丘につきあたって行き詰まったところに(中略)大きなビルディングが建っている。(中略)「国立海外移民収容所」である」。石川達三『蒼氓』の冒頭部分である。
 『蒼氓』では、収容所は、三ノ宮駅から坂道を山ノ手へ突き当たり行き詰まった丘の上に建っている。ところが、現在、三ノ宮駅から山手へ向かうフラワーロードは「坂道」とは言えず、その突き当たりにも、旧収容所の建物は存在しない。その建物は、三ノ宮駅ではなく、現在の元町駅から、穴門筋・鯉川筋・城が口筋を、真っ直ぐ山手へ続く坂道の突き当たりの高台に、当時のままの姿でそびえたっている。
 当時の三ノ宮駅は、現在のJR元町駅がある場所にあったためである。三ノ宮駅は明治七(一八七四)年に、現在のJR元町駅付近に開業した。ところが、三ノ宮駅は、昭和四(一九二九)年三月、神戸市内の鉄道を高架にする工事施工に伴い、現在の三ノ宮駅付近に移転した。
 ところが、旧三ノ宮駅(元町)周辺は、当時、神戸の政治経済の中心であり、官公庁、海運、商社が数多く立地していたため、昭和九年七月二十日に「請願駅」として、新たに、元町駅が、旧三ノ宮駅跡地に、開業した。
 収容所で、十日間の講話と予防接種に明け暮れた移住者は、出港の日、大きな荷物を担ぎ、履きなれない靴に足を噛まれながら、赤土の急な坂道を徒歩で下り、埠頭の移民船へ向かった。港に近づくにつれ、左手に旧居留地の立派な建物と、右手に南京町がある。今から七十年前、この坂道を黙々と歩いて下り、見知らぬブラジルへ旅立っていく移住者の胸中を去来したものはなんだったのだろうか。
 二〇〇〇年十月、海外の邦字新聞社の年次大会「海外日系新聞大会」が、旧移民収容所建物で開催された。この大会に参加した日系記者達から、先祖が歩いたこの坂道を、演歌「神戸・移住坂エレジー」として日系人歌手にレコーディングさせようという提案があった。
 この話を聞いて、「演歌・神戸移住坂」を作詞・作曲したのは、甲南大学理学部太田雅久教授だ。平成十三(二〇〇一)年四月二十八日、移民船乗船記念碑の完成記念レセプションで披露されたこの演歌、海外から駆けつけた百人の日系人を含む四百人の出席者を感銘させた。

 

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