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〝評価ゼロ〝の土地で=生き抜いて来た長州人―南マ州バルゼア・アレグレ移住地―(1)渡伯前、粟野八幡宮から=分けてもらった御神体

7月9日(水)

 評価ゼロの土地――。南マット・グロッソ州の州都カンポ・グランデ市から西へ約五十キロのテレーノス市。JAMIC(現・国際協力事業団)の直轄地としてバルゼア・アレグレ移住地が造成され、第一陣九世帯五十四人が一九五九年五月十五日、ペドロ・セレスチーノ駅に降り立った。テレーノスとは、インディオの言葉で米の生産を意味。移住者は開拓の夢に燃えた。が、初年度から三年連続の旱魃で、「船は見えねど白穂が見える、あれはバルゼの陸稲かよ」と、嘲笑の的になった。移住者の中からは、第二のドミニカだと、代替移住地を求めたり、訴訟を起こす者も。そして、外務省、JAMIC、在伯山口県人会(現・ブラジル山口県文化協会)などによる共同の実態調査(六二年二月)で「評価ゼロ」の判定が下された。いわく付きのこの地を〃山口村〃と呼んで愛着を持ち、生き抜いてきた人々の姿がある。

 六月二十五日午後二時すぎ。バルゼア・アレグレ産業組合理事長の金崎英司さん(六〇)宅に、三々五々、移住者が集まってきた。
 山口県豊浦郡豊北町大字粟野の出身者か粟野にゆかりのある人たちだ。渡伯前後に、同郷のよしみで婚姻した夫婦もおり、全員が縁戚関係になる。
 松枝つね子さん(七七)が最後に自宅から、祭壇を両脇にかかえて持ってきた。 この日、数十年ぶりに、金崎さんの父、九朗さん(故人、第一陣入植者)が渡伯直前に粟野八幡宮から分けてもらった御神体が披露された。
 するとすぐに、「これ、まだ残っちょったん」と、山口弁で驚きの声が挙った。
 続いて、一人が、「これ、全部日本から持ってきたんだったかね」と、言えば、別の一人が、「御神体は日本から持ってきたけど、祭壇はこっちで買ったほよ」と、切り返す。雰囲気はにわかに盛り上がっていった。
 御神体の表には「長門 粟野 八幡宮神璽」、裏には「S34年3月 分祀」と、はっきり記されている。賽銭箱には、クルゼイロ通貨で少々の賽銭も入っていた。
     ◇
 入植当初より、春と秋の二回、御神体を持ちまわりで回し、担当者の家で「粟野祭り」を行ってきた。団欒したり情報交換をするなどして、楽しんだようだ。
 三年連続の旱魃で、営農資金が底をつき、家財道具を売って、家計を賄う家庭も出ていた。
 第一陣入植者の沖島義智さん(=元産業組合理事長、七一)は、「苦しい生活が続いたけど、みんなで力を合わせてやっていこうというのが、祭りの趣旨だった」と、振り返る。
 五十一世帯のうち九世帯が六二年三月の時点で移住地に見切りをつけ、ほかに移っていった。粟野出身者(七世帯)からは、一人の脱耕者も出なかった。
 移住地ではその後、天候の影響を受けにくい養鶏へと、営農形態を切り替え、発展の礎を築いた。粟野出身者の生活も安定へと向かった。
 子供たちの数もどんどん増えていくに連れ、一軒の家で祭りを催すには、手狭になり、自然消滅してしまった。最後に御神体を預かったのが、祭壇を持参した松枝さんだったのだ。
 藤田繁・旧国際協力事業団サンパウロ支部バルゼア・アレグレ事業所長(当時)が、六七年十月から七三年十二月までの在任中、祭りを行っていた、と証言している。最低でも、十四年間は続いたことになる。
 二十五日のこの日、久々に見た御神体に両手を合わせて、祈る姿も見られた。松枝さんは、自分の元で止まっているものだからと、祭壇を自宅に持ち帰った。
 沖島さんがみんなに一言、声を掛けた。「また、粟野祭りをやろうか」。つづく。
(古杉征己記者)

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