ホーム | 連載 | 2003年 | 移民のふるさと巡り=3千キロの旅 | 移民のふるさと巡り=3千キロの旅=1=パラグアイ唯一―契約雇用移民地―アマンバイ、47年の歴史

移民のふるさと巡り=3千キロの旅=1=パラグアイ唯一―契約雇用移民地―アマンバイ、47年の歴史

10月8日(水)

 今回で十八回目を迎えた県連(中沢宏一会長)主催「移民のふるさと巡り」の一行百十九人は、ブラジルとパラグアイの国境、アマンバイ移住地、南マットグロッソ州、そしてサンパウロ州のリンスを九月二十五日から十月日まで六泊八日の日程で訪問した。パラグアイの移住地のほか、セーラ・ダ・ボドケナ国立公園のボニート、そして最近脚光を浴びているリンスの温泉地を加えたことで人気が出、バス三台になった。普段はなかなか会うことのない人々との交流もあり、参加した人たちは早くも次の旅での再会を約束していた。
 ブラジルとパラグアイ国の国境、町の中に国境があり、パラグアイ側がペドロ・ファン・カバレェーロ、ブラジル側がポンタ・ポランという、パラグアイ側のアマンバイを最初の訪問地とする旅に出発したのは、九月二十五日の夕方だった。
 高橋一水ブラジル高知県人会会長を団長として、百十九人の一行は、カステロ・ブランコ街道から南マット・グロッソ州のドゥラードスを経由、翌二十六日昼に国境を越えて、アマンバイ日本人会会館に着いた。
 国境を越えるというと、パスポートとか何とか面倒なものだが、今回は雨の中なにもなく、多くの出迎えを受けた。十七時間のバスの旅であった。面倒といえば、南マット・グロッソ州は、サンパウロ時間と一時間の時差、パラグアイのアマンバイはもう夏時間に入っており、時計を一時間早めたため、サンパウロ時間と同じで、街の人たちは国境を行き来するたびに、どう時間を調整するのだろうと心配する。
 アマンバイ日本人会は、ペドロ・ファン・カバレェーロ市内にあり、反対側のポンタ・ポランは目の前だ。花岡年雄会長をはじめ多くの会員、婦人会会員の出迎えを受けて、団員たちが握手するために並んでいると、途中から降り始めていた雨が激しくなった。
 団員たちは、それぞれ三々五々テーブルを囲み席につく。会場の会館には「歓迎 移民のふるさと巡りご一行」の垂れ幕がかけられており、初めに花岡アマンバイ日本人会会長が歓迎の挨拶。
 「遠いところからアマンバイ移住地を訪問していただきありがとうございます。このアマンバイ移住地は、一九五六年五月二十六日、米国人ジョンソン社長経営のアメリカ経済振興会社、略称カフェ耕地に契約農(コロノ)第一陣三十八家族二百六十名の入植によりその歴史が始まりました。現在、農業を営んでいる人は多くはありませんが、農業に大切な雨を皆さんが運んできてくれたことに感謝します」と述べた。
 続いて、県連副会長である高橋一水団長が答礼。「この移民のふるさと巡りは、一九八八年にはじまり、これで十八回を数え、パラグアイ国訪問は二〇〇一年のイグアスー移住地、アスンシオン、ラ・コルメナ、エンカルナシオン、ピラポー移住地訪問に続き二回目です。旅の人気が高く、大勢が参加して今回は三台のバスとなりました。雨のなか多くの方々に出迎えていただいたことを感謝いたします」。花岡会長に前回の「移民のふるさと巡り」の冊子および、県連の主催する「フェスティバル・ド・ジャポン」紹介のメイドイン・ジャパン誌、ニッケイ新聞の九月二十三、二十四、二十五日などが贈られた。
 開拓先亡者の霊に一分間の黙祷の後、地元最長老の音頭で乾杯、各テーブルの団員の中にそれぞれ出身県の人たちに入ってもらい、歓迎昼食会が開かれた。婦人会の心のこもったもてなしがあった。一リットル入りのパラグアイ産のビールの酔いも手伝い、会場のあちこちで思い出話に花が咲いた。
 最後に、皆で「炭鉱節」を踊り、これも「移民のふるさと巡り」の唄となった「ふるさと」を合唱し、雨が小降りとなった中を、次の訪問地ドゥラードス向けて出発した。つづく。(伊東信比古さん通信)

image_print

こちらの記事もどうぞ