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移民のふるさと巡り=3千キロの旅=2=いま大豆の一大生産地―ドゥラードスでミサを

10月9日(木)

 ペドロ・ファン・カバレェーロ市のアマンバイ日本人会館を出て、国境をまたぎドゥラードスへの道を引き返す。この辺りでもセンテーラ(土地なし農民)の旗印と、バラックともいえない掘っ建て小屋が道端に並んでいる。カステロ・ブランコ街道沿道でも見られたが、小屋に人影はあまり無く、本当に土地開放がこれらのセンテーラ農民を救えるものか疑問である。
 ドゥラードスは、南マ州ではカンポ・グランデに次ぐ都市だ。大豆やトウモロコシそして牧畜でも有名で、年々発展を続けている。
 今回はバス三台の旅行となったため一つのホテルに収容できず、ここで二つのホテルに別れることになった。雨は激しくなったり小降りになったりで降りやまない。旅装を解きシャワーを浴びた後、ロビーに集まり、バスでドゥラードスの日本人会館に向かう。
 会館はかなり大きなもので、講堂の壁に飾ってある種々の大会のトロフィーに、この会の活動の歴史を知ることができた。会場には「歓迎 第十八回移民のふるさと巡り」の横断幕と開拓先亡者之霊位の祭壇が作られていた。
 ドゥラードス市近辺に日本人が入植したのは、一九二七年のことで、その後、一九四六、五一、五二年にサンパウロ、パラナ州内から移り住んだ人がいる。五三年、時のゼツリオ・バルガス大統領と親密な間柄にあったマリリア在住の松原安太郎氏が、この地へ日本人移民導入計画をたてた。当時、ドゥラードス管内に日本人会組織は無く、このために「松原移民来る」の朗報に接した日系人は、新移民歓迎と日本人同士の親睦を図るために、日本人会を結成したという。松原氏が和歌山県出身であったことから、和歌山県出身者や北海道出身者が多いそうである。
 ここにはドゥラードス日伯文化体育協会があり、マット・グロッソ州が二つの州に分割される前の六四年、ドゥラードス市を中心に十五地方の日本人会と二支部を加え、南マット・グロッソ州日本文化協会が創立され、八五年連合会に改組された。カンポ・グランデ付近を除く南マット・グロッソ州の連合会で、翌日訪れる共栄移住地のほか、ラランジャ・リマ、松原植民地、ヴィセンチーナ、ナビライ、ポンタ・ポラン、ムンド・ノーボなどが加入している。連合会の参加各所を廻ることは不可能であることから、この会館で慰霊法要を行うことになった。
 小川ミツル牧師(通称チット)の手でミサが執り行われ、入祭の歌、はじめの祈り、聖書の朗読。小川牧師の説教には参加した団員も感動を受けたようだ。その後に聖歌。追悼の辞は南マット・グロッソ日伯文化協会連合会の小野亨右会長が述べ、団員、地元の人たちが焼香、結びの祈り、閉祭の歌とちょっと変則的であるが、無事に開拓先亡者への追悼を終えることができた。
 歓迎夕食会で棗田マウロ・ドゥラードス日伯文化体育協会は農業と牧畜の町を紹介。続いて南マ文協連合会の小野会長は「団員のみなさんには悪いが、雨を持って来てくれたことを感謝している」と挨拶。会場から団員たちの拍手が飛んだ。
 次に紹介された今回の団長の高橋一水県連副会長が、移民のふるさと巡りのことや県連の事業、役割を紹介した。棗田会長から今回の最年長者である河合五十一さん(九一)と女性の最高齢者名越ツギオさん(八五)に記念品が贈られ、交流会に移った。ここでも婦人会の心のこもった手料理のもてなしを受け、舞台で繰り広げられる地元の人の踊りやカラオケに感激したようだ。こちらから繰り出す持ち歌が少ない感じがしたが、団員から詩吟やカラオケが出て場を取り持つことができた。
 南マット・グロッソ時間では夜の十時半だが、サンパウロ時間では十一時半、名残は尽きないが、翌日以降の移動のこともあり、全員で「ふるさと」を歌い、有意義な歓迎の夜を過ごせたことを感謝し、バスでホテルに帰った。つづく。(伊東信比古さん通信)

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