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消えなかった日本語教育=戦中、戦後の日系社会混乱の中で(1)=授業初日に当局踏み込む=国井さん=父と兄はアンシェッタ島へ

12月10日(水)

 授業初日に警察当局が踏み込んできて日本語学校は閉鎖、教室を提供したという理由で父と兄は身柄を拘束され、その後アンシェッタ島に流された──。
 国井精(つとむ)さん(二世、六六)は、一九四六年四月二日夜の出来事が五十七年経った今でも頭から離れない。
 働き手を失った一家では、まだ幼い兄弟が母親を支えて、農作業に励んだ。二人が解放されて家族が全員そろったのは、それから五年後のことだった。
     ◇
 ポンペイア市(SP)から約十キロの旧ジャクチンガ移住地。戦前は綿作で栄えたが、終戦後、移住地は戦勝派と認識派に分かれて、いがみあっていた。
 勝ち組の間では、日系人は日本語を学ぶべしとの意識が高揚。青年会の主導で夜間に日本語学校をスタートさせることになった。
 文協を利用すれば外部に目立つので、国井さんの父、松四朗さん(故人)が自宅の倉庫を活用するよう申し出た。
 待望の授業は二日夜、いよいよ、始まった。三十分ほど経ち、授業が佳境に入り始めようとしたその時、警察官がいきなり室内に侵入。外に逃げ出さないよう、官庁関係者が窓ガラス越で見張った。
 国井さんも生徒の輪の中にいた。まだ幼かったこともあり記憶はあいまいで日本人間の対立についてもきちんと把握していたわけではなかった。
 ただ「警察官が手にしていた拳銃は、はっきり覚えている」という。ピストルを見たのは初めてで、恐怖のあまり足がすくんだからだ。「あの時は本当に、恐ろしかった」。
 翌三日、日本語学習者や教師など関係者は強制的に倉庫前に集められ、証拠写真を撮られた。
 「Escola Clandestina do Birro da Jacutinga em Pompeia fechada pela 〃Autoridades Escolares〃 no dia 3─4─1946」。
 標識には一九四六年四月三日、教育局によって非合法の日本語学校が閉鎖された、とはっきりと記された。
 写真の中央に青年部の責任者だったハカマダ・リョウさん(故人)。それを取り囲むように、市教育局の職員が陣取る。背後には、移住地そばに居住していた非日系人の姿も見える。
 「幸い、家には経済的なゆとりがあり、生活に困窮することは無かった」。アンシェッタ島まで面会に向かうことは出来ず、父と兄の様子は人伝えに聞くよりほかなかった。
     ◇
 家宅捜索で日本語の書籍類は手当たり次第に押収された。何故か、漢和辞典が残り、国井さんは独学で日本語学習を始めた。
 日本人発行の会報などを教科書代わりにして読み、分からない漢字はその都度、辞典で調べた。「明け方まで辞書にかじりついたこともあった」という。
 努力の甲斐あって、日本語は堪能になった。実際、取材中には日伯両語を交ぜるコロニア語は一切、使用せず、日本語だけで通した。初対面の人の中には、国井さんを一世だと勘違いする人も多いという。
    ×  ×    
 日系社会最大の混乱、勝ち負け抗争。戦後五十八年経った今、臣道連盟や認識運動に関わった人たちの多くが亡くなり、同時代を生きた人の体験も風化しつつある。証言を得るのは今後ますます困難になりそうだ。今だからこそ、話したい、記録にとどめておきたいという日系人の方に記憶をたどってもらった。全五回。つづく。(古杉征己記者)

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