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消えなかった日本語教育=戦中、戦後の日系社会混乱の中で(3)=戦勝派の家族に食料援助=飯田さん=「私は〝灰色〟貫いた」

12月12日(金)

「私は、どちらの側にも属さない〃灰色〃を貫いた。移民史は認識派を中心に書かれているが、戦勝派が悪いとは思いません」
 飯田静子さん(九〇、香川県出身)=サンジョゼ・ドス・カンポス市=はポンペイア市郊外のコレゴ・フツーロ植民地で財を成し、一九三〇年代後半、同市内に借家を三軒建築。うち一軒を認識派の地方有力者に賃貸した。と同時に、生活に困っていた戦勝派の一家に食料援助を行っており、両者の板ばさみで悩んだ。
     ◇
 中川重雄さん(香川県出身)一家が転居してきたのは四二年のことだった。重雄さんは関西大学中退で弟のケンイチさんが経営する薬局を手伝っていた。
 太平洋戦争が終結すると、父、重太郎さんは認識運動に加わった。サンパウロ方面から有力者が来ると、中川さん宅に立ち寄ったという。
 重雄さんはポルトガル語に堪能だったことから、警察当局から通訳を任された。「過激派と見られる人を次々と刑務所に送った」。
 一家は命を狙われることを恐れて銃を携帯。飯田さんの子供たちによく、見せびらかした。     
 当時市内には、黒木氏という戦勝派の有力者がいた。「年配の方だったが、日本人会長を務めるなどして人望があった」。
 娘のフミエさんが裁縫教室を開いて、家計を支えた。日本人の集会が禁止されると生徒数が激減。生活に困窮することになった。
 静子さんはフミエさんの生徒だったため、窮状を見かねて支援を決意。精米工場に頼んで毎月、米一俵を贈った。時局がらを考慮、匿名とし、「主人にさえ、知らせなかった」。
 しばらくして、ある友人が助けを求めてきた。
「親戚がトゥパンの刑務所に収監された。当局に拷問を受けて、ひどい状態になっている。釈放してもらえるよう中川さんに掛け合ってほしい」
 静子さんはさっそく重雄さんの父、重太郎さんの元に足を運んだ。「あなた、黒木さんに米を渡しているでしょう。そんなことをしたら、あなたも刑務所に入れられるよ」と、いきなり問い詰められた。
 「誰にも言っていないのになぜ」と一瞬、たじろいだ。そのすきに、「もし、黒木宅への援助を中止するなら、考えてやってもよい」と矢継ぎ早に話を持ちかけてきた。
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 夫、義勝さん(故人)は「今に政府から通知がきてわかるはず。それまでは隠忍自重する」と言って、中立を守った。「日本人じゃないと揶揄されても自分の意思を貫いた」。
 重太郎さんとのやりとりを打ち明けたところ、義勝さんは妻の身を案じ、援助は止めるように促した。静子さんは渋々、夫に従い「黒木さんとはあいさつすら、交わさなかった」。
 間もなく、親戚は釈放されたと友人が礼を言いに来た。一方、黒木さん一家とは付き合いがなくなり、その後の人生は全く分からない。つづく。(古杉征己記者)

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