新年号
04年1月1日(木)
サンパウロ市イタケーラ区の橋本記念標本館で暮らしています。私が収集した植物標本約一万種、十五万固体を整理するのが毎日の仕事です。標本は百二十のロッカーに入れてある。毎日の仕事以外では、博物研究会の研究キャンプを主宰し毎年欠かさずに実施していることかな。
高等植物は世界に二十三万種あります。この中にはキノコ、コケなどの種類、海草類は入っていない。ブラジルには四万種ある。日本は六千種。イギリスが意外と少なく四千種。フランス、スペインに九千種ある。中国はこれから増えますね。
私が発見した新種は、三十種類ぐらいかな。
健康については、私は決して頑健ではない。といって病弱でもない。脳溢血を二回やった。今年八月には日本病院(サンタ・クルス)で前立腺の手術をした。
一九四九年に大病をしています。カンポス・ド・ジョルドン市に行き、熱が出た。絵かきの増田秀一さん(俳号=忸河)たちがいたと思う。高岡専太郎さん(医師、マラリア研究者)に診てもらったら、パラチフスと診断された。四十三度の熱が出て隔離され、夢を見て、床をはいずり回った。肋膜炎を併発した。
療養していた下宿に佐藤念腹の末弟、牛童子がいたので俳句をやった。絵もかいた。俳句は何年やってもだめだね。基準がないから。その後、細江静男ドクターに診てもらったら「大病で菌を殺したから、これからは風邪を引かないよ」と言われ自信がついた。
薬草についてよく聞かれます。効果はあるが、人による。薬草の研究をしているが、自分では使わない。ただし市販の薬を飲むことに抵抗はありません。
若い時にはよく歩いた。今でも植物を採集するために歩きます。絵もかいている。植物画は二千枚ぐらいになるかな。植物の学名、俗名などを毎日タイプで打っている。毎日、何時間も。指に刺激を与えるのは健康にいいと医者に言われた。
六十歳になったとき、グアイラ市にいた。六十で、これからは日本人会などの役職には一切就くまいと決心した。植物の研究を始めたのはここから。孔子は四十にして立つといったけれども、私は六十でした。七十代になってトヨタ財団の援助でアマゾンに行った。
心の問題では、過ぎたるを憂うなかれを信条としている。取り越し苦労をしない。心を平静に保つように努めている。人との争いは一切しない。怒りは抑える。怒りはあの世へもっていくことにしている。人を傷つけるようなことも一切しない。抑えれば、必ず見返りがある。だから人生はおもしろいのです。
後継者はいません。欲得なしで仕事をする人は今はいない。死んだあとのことは心配していない。
一九九七年二月二十七日に妻ヨシ子を心臓マヒで亡くした。現在は静岡県で隣村だった佐舗(さじき)ユキと同せいしている。不思議な縁を感じる。
百歳までに死ぬかもしれないが、セッチ・ケーダスに水没した植物標本を再検討して、結果を残したい。ブラジルにとって貴重なものだ。(植物学者で)グアイラ市に住んだことのあるのは私だけだ。健康であれば力がわく。
日系社会を長い間見てきたが、変わった。一世は力がない。二、三世の時代だ。日本人として、どこかに日本文化を残したいという気持ちは強い。たとえ特殊なものであっても。日伯学園ができればいいね。
夢は、ギアナ高地に行くこと。ギアナの植物は変わっている。ガラパゴスは四〇%が固有の植物。ギアナは大陸の中にあって、周りを各種植物で囲まれているのに六〇%も固有の植物が生息している。
ガラパゴスは寒いのでランは六種しかなかった。エクアドルは三千種以上あり、ブラジルも多く二千種以上。アマゾンは、ランは周囲にあり、密林内部には少ない。これは意外だったな。アマゾン川は昔、太平洋側に流れていた。アンデス山脈ができるまではね。だからアマゾンは昔、一大沼沢地で肥沃ではなかった。そのため着生植物であるランは(宿主となる植物がなく)侵入できなかったのだろうね。