4月24日(土)
ブラジルの地理や歴史、コロニアの生活など身近な題材を取り入れた日系子女向けの日本語教材をつくらなければならない――。
アンドウ・ゼンパチの啓蒙運動が起爆剤になって、旧日伯文化普及会の下に日本語教科書刊行委員会(=第一期、山本喜誉司委員長)が発足。コロニア独自の教材づくりに向けて作業がスタートした。一九五九年のことだ。
編集執筆に携わったのは古野菊生、加藤千恵子、武本由夫ら六氏。詩人、歌人、日本での教職経験者など顔ぶれは様々だ。事務局が募金・広報や調査活動を展開した。
林実元・元文部省(現文部科学省)図書監修官(当時)が監修に当たったほか、守屋紀美雄帝国書院代表者(当時)が趣旨に賛同。同社が無償で印刷を一手に引き受けた。
こうして、二年後の六一年四月、『日本語』(巻一は『ニッポンゴ』、二~四が『にっぽんご』、五~十二が『日本語』)全十二巻のうち八巻が完成する。
公認教科書として認可を得る──。堂々と日本語教育を実施することは、コロニアの悲願だった。だから、編集作業を終えると直ちに、公証翻訳人に依頼してポルトガル語に翻訳。サンパウロ学務局の検定を受けた。頒布にこぎつけたのは六三年十一月のことだった。
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編年式で日本の国語教科書を踏襲した形となった。つまり、話し言葉が出来るという前提で、読み書き中心の教育ということだ。
二世はブラジル人だから、日本語は外国語であるという認識は既に、持たれていた。だが、日本語はまだ、多くの家庭で使われており、インテリグループの打ち出した理念に現場がついていけなかった。
第二期教科書刊行委員会事務局長(当時)の鈴木正威さん(人文研理事)は「子供たち自身も、日本語が外国語だという意識は持っていなかったのではないだろうか」と話す。
外来語を使う機会が多いという生活環境を考慮。日本では一巻(小学校一年)をひらがな表記から始めるのに対し、ブラジルではカタカナ表記から入った。
サンパウロの街やバンデイランテス(奥地探検隊)などブラジルの地理・歴史を取り入れたほか、日本移民史にも触れた。ある二世の女性は「これで、日本語を覚えました。今でも全部、暗記している部分があります」と興奮気味に語る。
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当時は柳田、光村の国語教科書も使われていた。『日本語』は六五年に、全国の日本語学校での普及率が九六%に達し、コロニアで抵抗なく受け入れられた。
鈴木さんは「学習者が二世から三世と世代が変わっていく中で、過渡期の日本語教育に十分、対応できた教材だ」と役割を位置付ける。
ただ、「カフェザールを持っていた」、「オニブスに乗った」というように日伯両語の混じったコロニア語が使用されたことについて、批判の目が向けられた。
「カミニョン(トラック)という言葉は日本にいくまで、日本語と思っていました」という声も。
これに対して、教科書刊行委員会は改訂版を出すことを決定。原稿をそろえた。しかし、印刷費を捻出することが出来ず、日の目をみることは無かった。
このシリーズを再版してほしいという根強い希望が、今一部で起こっているという。一部敬称略。つづく。
(古杉征己記者)