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コロニア前史に足跡残した日本人達

 日本移民百周年を三年後に控えた日系社会の現状をかんがみるに、第一回移民以前のコロニア前史と比較して、発展した分野から、百年を経過したにもかかわらず何ら進歩が見られない分野までがあることに気づかされる。移民先としてブラジルが適地かの議論は、〃笠戸丸前夜〃から真っ二つに分かれた。ヨーロッパ移民と比べて、移民の送り出しの遅れに対する焦りは、最近の日本企業の出遅れを想起させる。移植民運動家の根本正は、早くも日伯両国が補完関係にあると洞察している。〃笠戸丸〃以前のブラジル日本移民の歴史の胎動を探ることによって、日系コロニアの原点を見詰め直し、連綿と続く歴史の中に己の存在の意味を問う機会としたい。

初上陸は江戸期の漂流者

 一八〇三年(享和三年)、若宮丸の漂流者のうち四人がブラジルの土地を踏んだ。〃ブラジルに足跡を残した最初の日本人〃とされる。
 陸奥国石巻(いしのまき、宮城県東部。旧北上川河口にある遠洋漁業の基地)の回船『若宮丸』は一七九三年、江戸に向かう途中で難破。十六人の乗組員は七カ月漂流した後、ロシア領オンデレッケ島に漂着して、島の住民に助けられた。十六人は大陸に移り、バイカル湖西方のイルクーツクに八年間滞在した。
 一八〇三年にペテルブルグ(ロシア北西部。旧レニングラード、現サンクトペテルブルグ)に移った後、津太夫、儀兵衛、左平、太十郎の四人が帰国を希望し、折からロシアが準備していた東洋行きの軍艦『ナデシュダ号』と『ネヴァ号』への乗船が認められた。このときの『ナデシュダ号』のクルーゼンシュテルン艦長の航海記は、世界的に知られる。
 船団は大西洋で嵐に遭い、破損した箇所を修理するために一八〇三年十二月二十日にサンタ・カタリーナ州のデステーロ(現フロリアノポリス市)に入港、〇四年二月四日まで滞在した。
 船団は翌年一八〇五年十月に長崎に到着する。折から日本は鎖国中で、四人が上陸を許可されたのは六カ月後のことだった。『若宮丸』が石巻を出港してから、実に十三年目のことになる。
 四人は図らずも、〃最初に世界を一周した日本人〃となった。
 四人の旅行記録は仙台藩主の命令で、蘭学者大槻玄沢(一七五七―一八二七年)が『環海異聞』(文化四年一八〇七年)にまとめた。
 サンタ・カタリーナについては、四人が上陸して見聞した住民、産物について記録しており、特に当時の農作物については重要な資料となっている。
 一八六七年(慶応三年)一月二十一日、徳川幕府の命を受けオランダに留学していた榎本武揚たち九人が、オランダから『開陽丸』を運ぶ途中、リオ・デ・ジャネイロに入港した。同二月一日まで十一日間、滞在する。

割腹した前田十郎左衛門

 一八七〇年(明治三年)十月七日、バイアに入港したイギリス艦隊の旗艦リバプール号の乗組員だった前田十郎左衛門が寄港中突然、割腹自殺して同地の人々に異常なショックを与えた。翌日のジアリオ・デ・バイア紙は、「短刀で腹を十文字に切った後、数回にわたってのどを突き刺した」と伝えている。
 前田は、〃ブラジルに骨を埋めた最初の日本人〃となった。
 鈴木南樹は、「何事か薩摩隼人のうっぷんを晴らさんとして割腹せしか」と記している。
 この時期、イギリスに派遣されていた日本海軍練習生の遠洋航海訓練は、大西洋航路が多く使用された。山本権兵衛(一八五二―一九三三年、二度首相に就任)もブラジルの港に寄り、上陸している。
 ブラジル帝国政府の命令でフランシスコ・アントニオ・デ・アウメイダ(ブラジル人)は一八七四年、フランス天文観測隊に加わり金星観測のため日本に赴いた。同年十二月九日に長崎に到着、本隊は長崎、一部は神戸で観測した。アウメイダ教授は後に日本の印象記を書き、〃日本の普通教育の普及ぶりに感嘆〃している。

共和制移行期に軽業師ら

 一八八八年五月十三日、ブラジルの奴隷制度が廃止される。これが外国移民の導入を急激に促進させる。
 渡航時期は明確ではないが、竹沢万次と秋葉の二人がこのころ、ブラジルで生活していた。たぶん芸人として海外に出て、後に渡伯したものとみられる。
 竹沢はペドロ二世皇帝の近衛兵に柔道を教授していた。三十八歳の時、共和革命が起きて柔道師範を失職する。芸人たちに担がれ『シルコ・インペリアル・ジャポネス』を結成し、ブラジル各地ほかウルグアイ、アルゼンチンまで巡業した。
 秋葉は〃秋葉爺さん〃と呼ばれていたようで、千葉県の中産階級の生まれ。鈴木南樹は、「チャルメラを吹き流しつつ菓子を売り七十尚も恋をするかな」と歌っている。公使館の料理人をしていたこともあるという。ドイツ生まれの女にぞっこんであった、などと南樹は『チャルメラを吹く男』で記し、最後は、「拓人の生涯は淋しい、そうして悲しい、しかし甘い夢がある」と結んでいる。
 一八八九年七月十四日、ブラジルの軍艦アウミランテ・バローゾ号が横浜に入港。この船で大武和三郎は渡伯する。昭和十二年に『葡和新辞典』を発行する。

根本参事官の洞察力

 一八九四年(明治二十七年)七月十六日、根本正は農商務省参事官としてブラジル、中南米の視察に向かった。バイア(九月十五日)、リオ・デ・ジャネイロ(九月二十五日着)、ミナス・ジェライス、サンパウロ各州を踏査、関係要人とも会い、ブラジルが日本人の移民先国として極めて有望であることを看取した。
 根本は榎本子爵の『植民協会』の中堅で、熱心な移植民運動家だった。その根本が榎本子爵あてに、次のような報告(現代文訳)を送っている。
 「サンパウロ市とサントス港間の交通の便はよい。サンパウロ州知事に面会した。知事は丁重にもてなしてくれた。私がサントスに行くときは、特別仕立ての馬車を用意してくれた。道路は立派であった。寒暖計の温度は途中の馬車内でカ氏八〇度(セ氏二六・六度)、サントス港でカ氏八五度(セ氏二九・四度)を示した」「移民はここに上陸する。そのために必要なものはすべてそろっている。現在、ヨーロッパ特にイタリアから、陸続として移民が来ている」「ブラジルは、米国同様に面積も広く土地は肥沃だ。中でもミナス、サンパウロ、リオグランデ・ド・スル、サンタ・カタリーナの各州はよく肥えている。ミナスとサンパウロは気候も温和だ」「日本移民事業にとり、最も望みのあるのはサンパウロ州だ。水に恵まれ、多くの都市を建設することができ、永住の地とするに足る。生活を向上させ、財産を築き、子女に十分な教育を施し、幸福な人生を送ることができる。〃日伯両国はお互いに利益を得ることができ、補完関係〃にある。そのためにも、勤勉な技術者、忍耐力のある労働者を移民させる必要がある」

山形商会が商業のさきがけ

 一八九五年(明治二十八年)十一月五日、パリで日伯修好通商航海条約が締結される。
 一八九七年八月二十三日、リオ州ペトロポリスに開かれ、珍田捨巳(ちんだ・すてみ)が初代代理公使に就任する。珍田は、「ブラジルは邦人の移住すべき土地にあらず」との意見を、本省に再三にわたり報告している。二台目大越成徳も同じ意見で、イタリア移民の惨状を報告している。
 一九〇四年(明治三十七年)末、山県勇三郎が水嶋峻一郎をブラジルに送って山県商会の名で日本雑貨の販売をさせた。バザール・アメリカーナと関係を結び、日本から商品を取り寄せたりしたにすぎないともいう。
 一九〇六年九月二十四日、サンパウロ市サンベント街五八番に藤崎商会支店を開設、ジャポン・エン・サンパウロと命名される。
 一九〇七年八月、大平善太郎は猿橋伝と豊島昌を伴って再渡伯し、日本雑貨店『日伯商会』をリオ市に開く。これが同市における日本商店の先駆けとなる。
 一九〇六年(明治三十九年)三月二十七日、水野龍はブラジル視察のため初めてブラジルに入る。青年鈴木貞次郎(南樹)を伴っていた。鈴木は東洋汽船会社南米西海岸航路第一船グレーンファーグ号で先ずペルーに渡り、チリに上陸するはずだった。
 一九〇七年十一月六日、再度渡伯した水野はサンパウロ農務長官カルロス・ボテーリョと交渉し、同年から向こう三年間に日本移民三千人を導入する移民契約に調印した。このときの州統領はジョルジ・チビリッサだった。

通訳五人男

 通訳五人男は一九〇八年三月二十七日に東京を出発、シベリア経由で同年五月三日にサントスに到着した。加藤順之助、嶺昌(みね・まさる)、仁平崇(にへい・たかし)、大野基尚、平野運平を通訳五人男といった。
 一九〇八年四月二十八日午後五時五十五分、笠戸丸は神戸港を出港した。

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