ホーム | 日系社会ニュース | 活躍中の日系3世演歌歌手=南かなこさん=家族らが振り返る=幼少「下積み」時代=「3歳で唱歌大会に出場」

活躍中の日系3世演歌歌手=南かなこさん=家族らが振り返る=幼少「下積み」時代=「3歳で唱歌大会に出場」

5月26日(木)

 日系三世の歌手、南かなこさん(24)が日本の演歌界で奮闘している。二〇〇三年のデビューから二年、日本レコード大賞、日本有線大賞での新人賞をはじめ、テレビ、ラジオと多方面にわたる活躍ぶりだ。今年一月には四枚目のシングル「かなこの浜っ娘ソーラン」が発売された。「紅白歌合戦出場とブラジルでの凱旋コンサートが夢です」と目標を語る南さん。現在の活躍の陰には、長年にわたって彼女を支えつづけてきた家族の姿があった。サンパウロ市在住の両親を訪ねた。
 「歌も踊りも好きな子でしたよ。祖母の影響でしょうか」、サンパウロ市に暮らす南さんの両親、上野満夫さん(54)と艶子さん(55)は幼い頃の我が子を振り返る。
 本名は上野智恵美。北パラナ、ロンドリーナ市で一九八一年に生まれた。男ばかりの兄妹。歌が好きだった祖母チエノさんに連れられ、幼い頃からカラオケ大会へ行っていたという。
 初めて大会に出場したのは三歳の時。パラナ州で開かれた唱歌大会で兄の学校の出場者が足りなくなり、先生に頼まれて出場した。歌った曲は「チューリップ」。マイクに背丈が届かず、椅子に乗って歌った。
 六歳の時に初めて演歌を歌う。曲は松原のぶえ「演歌道」。それ以降、次々とカラオケ大会へ出場するようになる。六歳でサンパウロへ出て、花柳流・花柳寿り翔師範宅に住み込み日本舞踊を、九歳からは島田正市さんのもとで歌を学び始めた。そのころ家族は日本での生活を始めていた。智恵美さんも十二歳で訪日、両親の暮らす静岡県へ。
 「かわいい子でしたよ。舞台に出ても人怖じしない、堂々としたところがありましたね」。寿り翔さんは当時を振り返る。「踊りも好きでしたけど、でもどちらかと言えば歌の方が好きでしたね」。
 「才能のある子でしたよ。コンクールに出れば必ず上位入賞していました。以前はちょっと内気なところがあったかな」と語るのは島田さん。「日本に行く時にお母さんに言ったんですよ。この子は才能がある。智恵美から歌を取らないでくれと」。五年ほどで一家はブラジルへ戻るが、満夫さんは日本で仕事を続けながら娘の成長を見守り、デビューを見届けた後、昨年帰国した。
 高校を卒業した後は東京へ出て、働きながら音楽を学ぶ日々だった。夢をあきらめかけたこともあったという。そんな娘を艶子さんが励ました。「まだ二十歳かそこらであきらめるのはまだ早い。やりたいことを気の済むまでやりなさい」。そして二〇〇二年、小林幸子プロモーションの目に止まり、二十二歳でコロムビアレコードからデビューを果たす。南さんを歌の世界に導いた祖母は、その前年に八十三歳で亡くなっていた。「おばあちゃんは智恵美のことばかり言っていましたよ」。
 「居酒屋サンバ」でデビューした智恵美さんはその年、レコード大賞、日本有線大賞新人賞を獲得した。NHKの「歌謡コンサート」はじめテレビ・ラジオ番組の出演、地方での営業。多忙な日々だ。「本人も先の予定はあまり見ないと言っています。深夜のラジオ番組が終わって朝方、寝る前に電話をかけてきたりしますよ」。
 「ファンの皆さんがあってこそ自分がある。ファンを大事に、感謝の気持ちと愛情をこめて歌うことをいつも言っています」と語る艶子さん。日本では「BS日本の歌」やラジオ番組の収録、小林幸子の座長公演に出演した娘の姿を見たそうだ。「自分の望みに一歩一歩進んでいる姿をみるのはやっぱり嬉しい」。
 二人のかたわらには、智恵美さんが表紙を飾る日本の音楽雑誌が置かれる。日本から送ってくれたものだ。「いろいろ思い出します。先輩に迷惑をかけないようがんばってほしい。どの世界でもがんばることです」と、満夫さんは言葉を贈る。
 ブラジル公演が実現したら観に行きますか? 「恥かしいですね。家に隠れていようかな」と艶子さんは笑った。 
◇南さん本紙取材に=Eメールで答える◇
 幼少時の思い出は。
「おじいちゃんやおばあちゃんとよく散歩していて、裏の畑にあるトウモロコシの山で滑り台にして遊んでいたことです」
 日本での成功を目指すブラジルの後輩に向けて。
 「まだまだ新人の私です。ひとつ夢をもって、とにかく頑張ること!! 皆さんと一緒に舞台に立てる日を楽しみにしています」
 移民百周年について。
「自分は小さくて分かりませんでしたが、ブラジルで日本人が住みやすい環境を作ってくれた方々に感謝します!」
 マルシアに続いて大きくはばたき、ぜひとも百周年までに凱旋コンサートを実現して欲しいものだ。

image_print