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♪テン・ローパ・パ・ラバ?=パ洗染業者協会50周年=日系洗濯屋の歴史=連載(1)=「魂の垢まで落とす」

2005年8月3日(水)

 「彼らは魂の垢まで落としてくれる――」。毎年行われた先亡者ミサで、武内重雄神父はそう称えるのが常だった。洗濯屋はあまりに身近な存在だったがゆえに、移住史の中の重要な側面を担った割に、陽の当たらない職業だった。双璧を誇った業界団体の一つ、サンパウロ洗染業者協会は十年前、ひっそりと活動を停止した。唯一残ったパウリスタ洗染業者協会は今年一月に記念すべき五十周年を、密やかに祝った。かつて日系初の政治家を送り出した最強の業界団体。彼らのこの半世紀は何を意味するものだったのか。終戦六十周年を迎える今年、八月三日の「洗染業者の日」を機に、これまでの歴史を振り返ってみた。
 来賓が列をなすような華やかな式典はなかった。
 会員家族合わせて約八十人ばかりが集まって、かつては会員だけで五百軒を数えたサンパウロ市最強の日系業界団体、パウリスタ洗染業者協会(以下、パ協会)の往時を偲ぶ五十周年記念夕食会が行われた。今年一月二十九日の土曜日の晩、サンパウロ市ブルックリン区のレストラン・ナナコだった。
 「会員も減っているし、経済的に困っている人もいるから大きなことはできない」。主催したパ協会の〃万年会長〃池田エリオ(57、二世)は苦しい台所事情をほのめかした。
 創立会員を調べて感謝状を送る企画もあった。「だけど、すでに亡くなっていたり、引っ越して連絡先が分からなくなった人ばかりだった。今でも続けている人はまずいないね」
 勝ち負け騒動の傷跡が生々しく残る一九五五年一月三十一日、盛大に発会式が行われた。創立会員約百八十人が集まって、グロリア街のポロンで行われ、協同組合精神を根本とした経営を行うことを誓った。
 現在の会員数は、往時の半分以下の二百を切るまでに減った。今も組合員の大半は日系人で一世と二世の割合は半々。リベルダーデ広場に面したビルの六階に事務所を構え、職員も二人雇っている。
 もう一方の雄だったサンパウロ洗染業者協会(以下、サ協会)は、本来なら昨年に創立五十五周年を盛大に祝うはずだった。事務所は現在もブリガデイロ・ルイス・アントニオ街にあるが、閉ざされたままだ。毎月最終月曜に、役員六人ほどが集まっているのみ。
 同協会の顧問を務めた創立会員でもある伊藤春野(86、岩手)は、「団体としてはあるが、十年前から活動はない」と認める。
 往時の様子を尋ねると、「六〇年代が最盛期で、市内だけで三千五百軒の日本人の洗濯屋があった。ピニェイロスだけでも五十軒。恐らく、市内の洗濯屋の七〇~八〇%が日本人だったんじゃないかと思うよ」と懐かしそうに振り返った。
 ただし、往時の軒数には異説もある。「最盛期には二千軒」(ブラジル日本移民七〇年史、一九八〇年)とか、「サンパウロ市の邦人洗濯屋の正式登録者は三千軒を超えている。恐らくモグリを入れると、サンパウロ市郊外を加えて四千軒に及ぶと思う」(在伯邦人産業・文化躍進の六十年、以下は躍進の六十年、一九六八年)などだ。
 今回、洗濯業界の取材をして痛感したのは、まとまった記録が残っていないという点だ。唯一の文献である、約二十五年も続いた業界紙「洗染業界」ですら、移民史料館に一部あるのみだった。
 記念誌などが作られてこなかった理由を、伊藤は「酷い奴らには〃毛唐のふんどし洗ってる奴ら〃とまで言われたことがある。あまり胸を張って子どもたちに『継いでくれ』とは、誰もよう言わんかった。きつい仕事だし」と自嘲気味に語った。
 「お金はない、言葉はできない。アイロン一丁あれば始められたのが洗濯屋」であるがゆえに、軽く見られたようだ。ある意味、虐げられた職業といっても良いのかもしれない。
 しかし、亜国の日系社会はもちろん北米の韓国系社会などでは、現在も洗濯屋という職業集団はコミュニティに大きな存在感を持っているとは、つとに有名だ。ならば、ブラジルのそれも書き記さねばなるまい。
 日系洗染業界は本当に衰退してしまったのか――。業界の推移を通して、移住史の貴重な側面をひも解いてみたい。(つづく)
(敬称略、深沢正雪記者)

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