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2005年8月12日(金)

 故郷に錦を飾る――。
 これに勝る移民の憧れはそう幾つもない。先述の山本義美は洗濯機械販売などで儲け、一九五六年ごろ一時帰国し、北海道紋別郡西興部(にしおこっぺ)に凱旋した。
 サ協会の創立者の一人でもあった義美は当時、高級車の代名詞「シボレー52年型」に乗っていた。
 「ブラジルでは乞食がネクタイして革靴を履いてます」。凱旋していた義美の、そんな言葉に感じ入り、追田春雄は家族を連れて渡伯することを決意し、五七年九月に呼び寄せてもらった。
 義美の店ソール・レバンテで八カ月ほど修行し、翌五八年五月にピニェイロス区の店を買って独立した。
 春雄の息子、空海雄(60、北海道)はその当時のことをよく憶えている。
 「コチア本部の前なんかに、ボロボロの格好をした青年がよくいたんですよ、あの頃。父はそれを見て、なんとかしなきゃって。バタタのサッコの首襟切って服みたいにし、髪がボウボウになった青年をうちに連れてきて風呂に入れ、仕事を教えたんです」
 六〇年前後、戦後の若い単身移民で、パトロンとウマが合わず耕地から飛び出し、サンパウロ市で乞食同然の格好をしている写真が邦字紙には時々掲載された。
 春雄は青年に家族がいれば、全員引きとって世話を焼いた。「多い時で五家族はいました。青年も十人ぐらい家にゴロゴロしてました。二週間で米一俵なくなるって母が嘆いてました」と思い出し笑いをする。
 ジャポン・ノーボと呼ばれたそんな青年らは、不良二世と乱闘騒ぎをするなど、いろいろ問題も起こした。
 「愚連隊の出来損ねみたいのがいっぱいいた。裕次郎刈りにマンボーズボン(裾が絞って細い)をはいてよくケンカしている時代でした。きっと田舎で溜めてきたストレスを発散していたのでしょう」
 春雄が日本へ帰った時、自分が預かっていた青年の実家を訪ねていった。その時の話を、空海雄は聞いたことがある。
 青年の両親から、息子がブラジルから書いた手紙を見せてもらった。そこには、切々と将来の夢物語が記されていた。まるでバラ色の未来が広がっているかのようだった。
 「自分は今、コーヒー園の使用人として働いている。でも、ゆくゆくはコーヒー王になるから、それまで待っていてくれ!」
 痛いくらいに青年の気持ちが分かり、手紙を手に、急に涙が出て止まらなくなった。
 そんな春雄を見て、両親が「どうしたのか」と尋ねた。
 春雄は正直に現在の状況を説明すると、今度は両親が泣き崩れた。家族と相談して青年に花嫁を探し、独立するための資金をなんとかかき集めた。そうやって六八年ぐらいまでに、半年から二年ほど修行して十八軒が旅立っていった。
 その一人、佐藤良隆(75、秋田)は「追田さんに拾ってもらった。大変お世話になった」としみじみつぶやいた。六三年に渡伯し、その年から追田の店に入り、妻と子ども四人の一家で世話になった。
 「住み込みで食うこと心配なしで小遣いまでもらった。人によって半年で独立するが、私は二年半も居させてもらった」
 山本家、追田家、佐藤家には天理教という強い絆もあった。親子関係を尊重する「親孝信」という思想は、洗濯屋修行と合致したのかもしれない。複数の関係者に問い合わせたが、教団として信者を優先的に修行させて独立を勧めた訳ではないという。あくまで個人として、だった。
 洗濯屋は何も服だけ洗っていたわけではない。人助け、相互扶助もその歴史には深く刻まれている。
(敬称略、深沢正雪記者)

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