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♪テン・ローパ・パ・ラバ?=パ洗染業者=協会50周年=日系洗濯屋の歴史=連載(3)=臣道聯盟トップも生業に

2005年8月5日(金)

 「臣道聯盟の吉川さん、うちにおったのよ。一メートル七十五センチぐらいある大きな男だった。とってもいい男だったよね」。洗濯屋の草分け、山本栄一は懐かしそうに思い出す。
 帝国陸軍の退役中佐だった吉川順治は、臣道聯盟の理事長だった。日本の戦勝を喧伝し、敗戦を主張した負け組要人らに暗殺テロを遂行するなど、終戦後の数年間、コロニアに大きな影響力を持っていた。
 DOPS(政治社会警察)の獄中で書き記した文書は「吉川精神」と呼ばれ、組織の基本路線を定めた。
 日本勝利を信じ、大東亜共栄圏をうたっていただけに、吉川の洗濯屋の名前は「チンツラリア・アジア」(山本談)だった。四〇年に一年ほど見習いし、その後、独立してヴィラ・マリアーナ区に店を構えていた。
 「当時吉川は六十九歳で七人の子どもたちと洗染業をいとなんでいた」と半田知雄の『移民の生活の歴史』には記されている。
 「根来、吉川、渡真利などは、この時代の社会情勢にしたがって、コロニアに生れたメシア(救世主)的な存在であったことはまちがいない」とまで書かれている。
 山本によれば、独立してからはほとんど交渉はなかった。「うちのオヤジは勝った負けたに関りたくなかったんだ。しばらく静かにしていた方がいいという意見だった」。
 でも、洗濯屋の中には積極的に渦中に飛び込んでいく者もいた。
 『ブラジル日本移民八十年史』(一九九一年)にも、聯盟の実行部隊の一人、小笠原亀五郎がヴェルゲイロ街724番で洗濯屋「オリエンテ」を経営しており、そこで襲撃のための指導訓練を毎日したとある。彼の知り合いの洗濯屋にも分散させて暗殺部隊を潜伏させた。
 その小笠原のDOPS調書には「自分は彼らをかくまうとともに、洗濯の仕事を教えた」とか、「自分は野村・脇山暗殺および、古谷襲撃の『特攻隊』および『決死隊』の組織者であり、指揮者、出資者である」と供述している。
 山本も当時を振り返り、「戦争中はそうでもなかった。戦争がすんでから日本人同士で大喧嘩。洗濯屋同士で勝ち負けにわかれた」という。「もう日本人の洗濯屋には出さん、って言うブラジル人もあったんですよ」。
 四〇年には百軒ほどだったが、戦争中にどんどん増え、終戦時の四五年には五百軒はあったという。
 香山六郎の『移民四十年史』(一九四九年)には、「サンパウロ市における邦人の洗濯業店は、全市千五百軒の中三分の二は日本人移民といわれ、同業界に恐慌を孕む」とあり、四八年には一千軒あったとする。つまり、戦争をはさんでわずか十年間に十倍に激増した訳だ。
 その理由を、山本は「奥地でうまくいかなかった人がどんどん出てきた。うちで半年も見習いした人はどんどん独立した」と説明する。
 サンパウロ人文科学研究所の宮尾進元所長は、「子どもに高学歴を身につけさせるために、田舎から出てきた家が多かった。家族労働、小資本、ポルトゲースが分からなくても可能という三条件がそろっていたから、取っ付きやすかった」と分析する。
 洗濯屋以外にも八百屋、フェイランテなどを生業とする者は多かった。
 戦争が勃発、帝国総領事館は移民を置き去りにし、祖国は敵国となった。そして終戦と混乱――。
 錦衣帰郷を夢見て耕地で苦しい生活をしていた移民にとって、日本の敗戦は帰るべき故郷の喪失を意味した。失意にまみれ、よりどころを失った彼らの多くは、テーラ・ロッシャに骨を埋める決意を固めた。
 子どもに全未来を託そうと考え、自らは洗濯屋となった。
(敬称略、深沢正雪記者)

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