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♪テン・ローパ・パ・ラバ?=パ洗染業者=協会50周年=日系洗濯屋の歴史=連載(6)=少年時代のルーラも勤務

2005年8月10日(水)

 一九五八年、移民五十年祭で企画されたコロニア実体調査は、洗濯屋抜きには語れないものだった。
 「日本移民史上空前絶後の大調査」(文協四十年史)といわれる規模のもので、延べ六千人が六年の歳月をかけて全伯の日系人口の把握を行った。中でも最難関と言われていたサンパウロ市内を引き受けたのが、洗染業界だった。
 同四十年史にも「洗染業の日系会員が準備調査として、市内の各地区毎に日系人の所在を確かめるという困難な仕事を引き受け、大都会に分散している日系人をほとんど洩れなく面接調査しておおきな成果を上げた」とある。
 そんな大活躍をする直前の五七年、のちに大物政治家となる十二歳の少年が、サンパウロ市イピランガ区の日系洗濯店で初めて職を得た。
 ルーラ大統領だ。
 今年四月、訪日前に日本人記者団と会見した時にも、大統領本人がその洗濯店についてコメントし、マリコとケイコという娘がいた四人家族だったと語った。クリーニング、アイロンがけ、配達など一通りの仕事をし、「息子と同様によく扱ってくれた」と感謝までした。家長の姓名は不明だが、ルーラは「アントニオ」と呼んでいた。
 四五年十月、終戦直後にペルナンブッコ州の貧困な農村に生れたルーラは、七歳で家族と共にサンパウロ州沿岸部へ国内移住。五六年にサンパウロ市イピランガ区へ再移転していた。
 四八年から現在に到るまで同区で洗濯店を営み続ける天野昭男(80、あきお、北海道)にも確認したが、「そのような話は聞いたことがない」との返答だった。
 「ルーラはヴィラ・カリオッカ辺りに住んでいたと聞いているから、あの辺じゃないかな」という。息子のハルオが現在は継いでいる。
 同区で天野以前といえば、四二年から染物屋で働き始めた藤原二郎(87、和歌山)だ。彼自身が最有力候補でもあったが「自分ではない」と否定した。九三年に閉店するまでこの道一筋だった。「五〇年代にやってた人はほとんど亡くなったり、店閉めたりしてるから、その当時のことを知るのは僕ら以外ほとんどいないよ」。
 実体調査が始まった翌年、五九年には業界新聞まで創刊された。原田次男の月刊新聞「洗染業界」紙だ。最盛期で四千部を刷ったといい、山本栄一によれば、原田本人が記者、編集長、広告営業、配達まで何でもこなした。「世界で一番小さな新聞だっていつも言ってました」と笑う。
 毎週どこかであった地区別親睦会に顔を出し、議事録を記事にした。ブラジル国旗の文言をもじって「洗染業界の〃秩序と進歩〃のために!」という勇ましいスローガンを掲げた四頁のタブロイド版だった。
 戦前のアマゾン移民で、一時帰国し同志社大学を出たインテリとして知られた。八四年まで発行し続け、九三年に亡くなった。
 数年に一度、『洗染業者親睦会要覧』という住所録を発行し、販売した。最後となった第三集(一九七四年)には五十七もの親睦会とその会員住所に加え、七〇年十一月の統一選挙における各日系候補者の地区別得票数まで細かく掲載されている。
 何気ない住所録に、そのような政治色の強い内容が盛り込まれていることに、当時の雰囲気が嗅ぎ取れそうだ。
(敬称略、深沢正雪記者)

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