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テン・ローパ・パ・ラバ?=パ洗染業者=協会50周年=日系洗濯屋の歴史=連載(5)=選挙を左右した組織力?

2005年8月9日(火)

 一九四七年は大きな節目だった。
 物価調整委員会(COAP)が洗濯代を、従来の一着二十二クルゼイロから十六に下げた状態で凍結した公定料金を決定したからだ。すでに五百軒あると言われた日系洗濯屋にとって死活問題だった。
 この危機を打開するために担ぎ上げられたのが、田村幸重(キリスト民主党)だった。四八年一月の戦後初の選挙でサンパウロ市議となり、以後立て続けに、五〇年に州議、五四年には連邦下議と階段を一気に駆け上がり、日系政治家の最前線を切り開いた。
 「特にサンパウロ市一千の洗染業者とか地方のバタタ生産者関係など有力筋の支持、また日系集団地青年層をその雄弁と平易な話術で魅惑したことが大きな力となっている」(『パウリスタ年鑑』一九五一年)との分析が当時されている。
 戦前戦中のバルガス独裁政権中には選挙がなかった。戦後初の選挙は実に十数年ぶりで、その間に多くの二世が成長して有権者となっていた。そのため、サンパウロ市に限らず各地で市議が誕生し、政治への関心が一気に高まった。
 「戦後第一回の地方選挙(四八年)では一時に三十余人の日系市会議員を出すという現象をもたらした。更に新政市郡における追加選挙(四九年)では、日系市会議員十七人を出し、現在では約五十人もの市議が活躍している」(『同パ年鑑』一九五〇年)
 このような未曾有の選挙熱の高まりを受け、サ協会は四九年に発足した。公定洗濯料金の撤廃は五一年に実現され、その発表が州議会場であった。八月三日だった。それを記念して七〇年に「洗染業者の日」が制定された訳だ。
 コロニアが熱い時代だった。
 「田村はとにかく演説が上手かった。どの町へ行っても目抜き通りに停めたカミヨンの上で、マイクを握り一説ぶつと、ブラジル人がいっぱい集まってヤンヤ喝采を送ったよ」と、伊藤は目を細める。田村は連邦議員選挙でも常時六~七万を得ていたという。
 では、どのように洗濯屋は応援をしたのだろう。
 七五年から八二年までパ協会の会長を務めた岡本正三(75、和歌山)は、「選挙のたびに、洗濯したお客さんの服のポケットにビラを忍ばせるんです。あの頃、自分の候補を決めていない人なんかは、けっこうそれで投票したもんです。日系だからガランチードだろう、なんてね(笑)」と説明する。
 伊藤も「昔は僕らがポケットに入れたビラを投票箱に入れれば、それで一票になった。印刷でも手書きでも良かった」という。
 もちろん中には、怒る客もいた。「反対党のお客さんから怒られたよ。こんなもん(ビラ)いれるなら、もう持ってこないって」と山本は話す。
 このように選挙権のない移民でも、間接的に数万票も左右することができた。「昔は、洗濯屋は〃選挙の神さま〃と言われていたんですよ。洗濯屋に足を向けて寝れない政治家が何人もいるってね(笑)」(岡本談)。
 その一人、田村幸重(90、二世)を自宅に訪ねると、「今までチンツレイロにたくさんアジューダしてもらった」と感謝を述べた。輝かしい経歴を誇る同氏だが、「僕は苦労ばっかりだった」と多くを語りたがらなかった。
 四九年に発足したサ協会は、日系人が中心とはいえ、理事長はブラジル人で、理事会は全てポ語で行われていた。
 それに対し、日本語で会議を開いてしゃべりたいという人が分派してパウリスタ協会を作ったと、岡本元会長は経緯を語った。
 五三年の戦後移住再開やシネ・ニテロイの落成、翌五四年のサンパウロ市四百年祭から五八年の移民五十周年など、コロニアは駆け足で戦争の傷跡から回復しようとしていた。
 田村が連邦下議に当選した翌年、いわば選挙活動が最も上り調子だった五五年に、パ協会は独立、発足した。
(敬称略、深沢正雪記者)

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