ホーム | 日系社会ニュース | 60年前、祖国に救援物資送った日々=勝ち負け抗争に翻弄されながら=お金も衣類も食料も=当時の指導者ら皆死去 歴史の重み噛み締める

60年前、祖国に救援物資送った日々=勝ち負け抗争に翻弄されながら=お金も衣類も食料も=当時の指導者ら皆死去 歴史の重み噛み締める

2005年8月16日(火)

 太平洋戦争で焦土と化した祖国を救おうと、コロニアから救援物資や寄付金が送られた。旗振り役になったのは認識運動に立っていた人々で、時局をめぐる「勝ち負けの対立」に翻弄されながらもブラジルに根を張ることを決意していったという。当時の救援活動を知る内木ふみさん(93、北海道出身)と伊藤元二さん(90、広島県出身)に、六十年前を振り返ってもらった。
 サンパウロ市アクリマソン区内の日系人宅。名はフジワラさんといった。終戦当時にセスナ機を所有している資産家の邸宅で、日系の婦人有志がそこを拠点に約二年間古着を集めていた。
 内木さんは近くに居住していたことから、自然に仲間の輪に加わっていった。一家は、バウルーでグァラナ製造の会社を持っていた。認識派に属していたため、戦勝派から命を狙われサンパウロに逃れてきた。
 「ラジオで日本が大変なんだと聞き、何か役に立ちたいと思いました」。日本と直接通信出来なかったので、沈鬱した日々だったという。
 内木さんの記憶によれば、戦災救援活動は故渡辺マルガリーダさんが、収容所に収監された日本人に衣服や食事を届けていたのが始まりだったという。古着集めは、だいたい午後から。数人で市内の日系人宅を回って、協力を求めた。
 「衣服がたくさんある所と言えば洗濯屋だったんですが、洗濯屋には戦勝派の方が多くて、うっかり頼めないんですよ。アメアサしてくることもあるし、後で何をされるか分からないから、恐くて」。
 警察当局に密告されることを懸念し、訪問先選びには気を使った。「非日系人宅にうかがうのは、避けました」。
 集まった古着は、綻びなどを直した上、洗濯、アイロンをかけて、毎月北米経由で日本に送った。「当時中枢にいた人たちは、みんな亡くなってしまいました。今年で終戦六十年ですから」と、内木さんは歴史の重みを噛み締めた。
 古着集めのグループが、聖母婦人会とエスペランサ婦人会を創立した。
 サンベルナルド・ド・カンポの瑞穂植民地。戦中から「国防献金」を募り、終戦まで総領事館を通じて三回、祖国に送金した。日本の敗戦を知ると、救援金を集めることで入植者の意見が一致した。
 伊藤さんは「ここでは、勝ち負けの対立は起こらなかったんですよ」と話す。スペイン総領事館に勤務していたアンドウ・ゼンパチ(本名・安藤潔、日伯新聞元編集長)が、日本の情報を得て入植者に伝えていたので、すんなりと敗戦を認識したのだという。
 「ここにしっかり根を生やしてがんばらなければならないと気付いた」(伊藤さん)。
 瑞穂植民地の創立は一九三五年。本格的に養鶏を導入して潤い始めるのは五〇年を過ぎてからで、四五年当時まだ電気が引かれていなかった。「それでも、海外同胞として祖国の事を忘れる日はなかった」。
 救援活動の先頭に立ったのは、松本龍一瑞穂植民会会長。サンパウロで農作物を売って得た収入の一%を寄付金として出し合い、四七年七月と四八年六月にそれぞれ二十コントスを送ったほか、五〇年十月に旧東京毎日新聞社を通じ、日本学術研究所にも送金した。
 伊藤さんは「ここの取り柄って別になかったけど、みんな仲良くしたことが一番良かった」と懐かしむ。学術研究所の所長を務めた、ノーベル賞受賞者の湯川秀樹博士夫妻が五八年七月に植民地を訪れて謝辞を述べたことは、瑞穂の誇りだ。東条英機の夫人、勝子さんからも礼状が届いたという。

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