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北パ、カルロポリス=コチア青年の誇り=域社会発展に大きな役割

2005年8月24日(水)

 カルロポリスは、パラナ州東部に位置し、サンパウロ州とは発電のための人造湖シャバンテスに架かる一・五キロメートルの橋でつながっている、たいへん風向明媚な所だ。将来は、観光地としても発展する大きな可能性を秘めている。
 近くのサルト・ド・イタラレーには石束好三(京都・第一次六回)が、ジョアキン・ターボラには関勝(千葉・一/十五)が、一人ずつではあるが頑張っている。カルロポリスが一番多く、十名のコチア青年が健在である。
 最初から配耕された田中清治(北海道・一/二)、赤松鶴喜(熊本・一/三)、久保正夫(徳島・一/五)、佐藤清太(福島・一/七)、宇都春雄(鹿児島・一/八)、阿部和義(北海道・二/四)、中林良(島根・二/六)、伊藤定雄(北海道・二/七)の八名と、他から移って来た筒井政廣(高知・一/六)と浦添尊(長崎・二/七)の二名である。
 当地で亡くなったコチア青年は三名いる、宮川正(秋田・一/二)、金子義雄(福島・一/三)、杉村文夫(静岡・二/二十六)だ。
 カルロポリスは、かつてコチア青年の「パラナ収容所」と渾名された伊藤直氏とコチア産業組合理事・山本勝雄氏の農場があり、多くの青年がワラジをぬいだ地でもある。
 先日、仲間同士で話し合って情報をまとめたところ、合わせて六十三名の仲間が当地にいたことが判明した。ということは、パラナ州東部でのコチア青年の定着率は一五パーセントで、決して誉められる数字ではない。しかし、一九七〇年頃、シャバンテス発電所建設にともない、日系人の大半がこの地を去り(一面では去ることを余儀なくされた)、コチア産組カルロポリス事業所の活動が激減したにもかかわらず、「コチア青年の村」で養鶏が盛んとなり、フランゴ(ブロイラー)生産も加わり、コチア青年の活動が産組全体の七〇パーセント以上を越す期間がずっと続いたし、五名のコチア青年が産組評議員を歴任し、組合活動の中心的存在となっていたことも事実である。それは、コチア青年の誇りといっても言い過ぎではない。
 そのコチア産組が今は無いのは寂しいかぎりである。さらに、コチア青年は当地の日系人会の統合にも加わり、カルロポリス文化体育協会の立ち上げ、運営、発展にも四名の仲間が会長を勤めて来た。その中の二名は会長職を二回も歴任し、カルロポリス市から名誉市民章を贈られていることを考慮しても、コチア青年が地域発展に少なからず寄与したことも、また事実である。
 五十年を過ぎた今、とり立てて語るようなコチア青年の事業や活動がこの地にないことは残念である。他の移住地での仲間たちとも大差はないかと思われるが、八名のコチア青年で(二名には子供が無い)三十七人の子供をつくり、今では孫に恵まれている者も少なくない。子供全体の半数以上の二十名が大学を卒業している。これ自体も日本人の教育の熱心さを物語っている。
 当地・カルロポリスに残っている子供、コチア青年二世の中には、市会議員を経て、副市長に就任している者もいる。いずれにしても、今は二世の時代だ。その子供たちを育てた往年のコチア青年は、ゲートボールやパークゴルフなどに。日々を好日として送っているのが現状であり、可も無く、不可も無し、ということは、半世紀を振り返ると「良かった」ということか。
 《中林良(なかばやし りょう)さん通信、コチア青年の敬称略。中林さんはコチア青年第二次六回・島根県出身通信》

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