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「マリード夫は非日系ブラジル人」=移住して改めて〝日本人〟を意識=連載(4)=心開いて話し合える国=えり子さん=大好きな大らかさ

2005年9月28日(水)

 「心を開いて素直に人と接することができる国」。ブラジル生活十五年になるえり子・安藤・ドス・アンジョス・コスタさん(42)は、二十一年間日本で働いた経験がある夫を持つ。
 「何だかそろそろ空気を変えたい」。えり子さんは会社を辞め、ブラジルにいる知り合いを訪ねて二ヵ月間旅行をすることに。渡伯するに当たって、「ブラジルに詳しい変なおっちゃんがいるよ」と友人に紹介されたのがイヴォさんだった。
 イヴォ・ドス・アンジョス・コスタさん(66)は一九六八年に訪日。NHKの国際放送局に入社し、ポルトガル語のキャスターを任された。その間、バンデイランテスTV局や、ジョーベン・パン・ラジオ局、ベージャ誌の特派員として、日本の情報をブラジルに配信するなどの仕事もした。
 NHK大河ドラマ『国盗り物語』にも役者として出演。一九七四年からはジャパン・ポップショーにも出演していた。地域の祭りなど、日本全国を取材し、日本が大好きになったという。えり子さんは、「私よりもイヴォの方が日本人ぽくて困るときがある」と苦笑するほど。
 えり子さんが帰国後、二人は結婚し渡伯した。「父に結婚を反対され、勘当されて来た」。日本から覚えてきた言葉はオブリガーダとカフェ ポルファボール。「何を話してるかわからないし、お手伝いさんには言葉わからないから馬鹿にされるし、外は危ないからってずっと家の中にいた」。頼みの綱だったイヴォさんも渡伯一ヵ月後、仕事の都合で日本へ旅立った。「もうほんとに早く日本に帰りたかった。けど、勘当されて来てるから親に頼れなかった」と振り返る。 
 しかし、娘が産まれたことをきっかけに、父の態度が百八十度変わったという。「帰ってこい」。 
 えり子さんは嬉しさのあまり、スキップしながら実家、新潟の佐渡へ帰ったというほど。その後、イヴォさんの勤務先がラジオ局FM横浜に決まり、住まいを横浜に移した。
 「ある日、娘を公園に連れてったら顔が違うだけで警戒したり、少し避けるような雰囲気があった。ブラジルだったらこんな雰囲気はない」。あれほど嫌だったブラジルが不思議となつかしくなってきたという。「日本にいたからこそブラジルの良さがどんどん見えてきた」と話す。
 その後、息子を出産し、ブラジルへ再び戻った。「子どもを今の日本で育てる自信がなかった。子どもには人とちゃんと接して対話できるようになってほしい。ブラジルではそれができる」と言い切る。家族でも何か意見や相談があれば家族会議を開くなど、対話を大切にしている。    「日本では本音と建て前がある。でもこっちは常に本音でぶつかるし、喧嘩しても心から許す。そして人を疑わない。これがブラジルに来て学んだこと」と話す。
 また、「夫の家族に、言葉がわからなくても娘のように愛情を持って接してもらった」と微笑んだ。えり子さんの父が来伯した時も、その様子を見て「安心した」と言ってくれたそう。
 「ブラジルの家族の絆を見ていたら、もっと父親と話をすればよかったなと思う」と今は亡き父を懐かしみ、「イヴォと結婚してここに来てなかったら、今頃日本で無味乾燥状態になっていたかもしれない。それを考えると、辛いこともあったけど来てよかった」と笑った。今では骨をブラジルに埋めるつもりだと力強く言い切った。        つづく   (南部サヤカ記者)

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