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「マリード夫は非日系ブラジル人」=移住して改めて〃日本人〃を意識=連載(1)=サンバに魅せられて=ゆかさん=欲しいものは必ずわが手に

2005年9月23日(金)

 「まさかブラジルに住むなんて思っていなかった」。ブラジル人との結婚を機に永住を覚悟で渡伯した日本人女性たち。北はゴイアニア州から南はサンタカタリーナ州へ移住した。食事、言葉、生活、考え方…全てが違うこの国で文化の壁を乗り越えながら生活してきた。豊かな国日本から移り住み、ギャップに驚いたこともしばしば。移住したことで改めて「日本人」ということも意識した。七人の子の育児、美容院経営、日本語教師、サンビスタ、そして夫を支える妻として、それぞれがこの地で経験してきたことは十人十色。そこから見えてきたブラジルとは―。
 サンバが好き―。現在バイーア州都サルバドール市のペロウリーニョで土産物屋を経営する傍ら、サンバ関係の仕事をしているゆか・ドス・サントス・リバニオさん。友人が経営する名古屋のブラジルレストランに招待されたことがきっかけで初めてブラジル文化に触れた。その後、ビデオでカーニバルの様子を見て、「これはブラジルに行かなくちゃ。音楽が血管に入り込んで心臓にたどり着き、エネルギーになるような感じがした」。
 しかし当時、若くしてスナック経営をしていたため、すぐには渡伯できず、その店でショーとしてサンバを取り入れるようになった。「ママが踊る店」として有名になり、雑誌にも掲載された。「でも、日本では良いサンバの指導者が近くにいなくて伸び悩んだ」と思い出す。
 その翌年、打楽器奏者として来日していたパウロ・ヒカルド・ドス・サントス・リバニオさんと出会い、結婚。パウロさんは土木業や、警備員などの仕事をしたが、どれも途中で断念。「日本のきっちりさについていけなかった」。そこでスナックを閉め、渡伯を決意。「一大決心だった。日本には何でもあったし、それを捨てていくのは一からのスタートだった」と当時を振り返る。
 「こっちでサンバしようと思ったのと、旦那に責任を持たせようと思って、お金あんまり持ってこなかった」と渡伯当初を思い出し、苦笑する。言葉も通じず、毎日アイピンを食べて生活費を節約していたため、ストレスと栄養失調で倒れたという。「自分の選んだ道」。そう言い聞かせ、あるお金でペンダントなどを作り、それを土産物屋で売る生活だった。
 「刀を持って、日本の能面を着けてするショーは一番ブラジル人に受けるパターン」と言うゆかさん。「最初は能面も着物もまとっているけど、だんだんそれを脱いでいきながら最後はサンバの衣装になる」。「日本」を少しでも取り入れようと、丈が短い着物など和服を基調にした衣装も自分で作製している。約十分のパフォーマンスの中で「村田英雄の『無法松の一生』は十八番」と、演歌を歌う時もあるそう。九九年来伯当初は、小さいスペースを借りて営業していた土産物屋も、これらのショーをやってお金を貯め、二〇〇一年には違う土地に改装できるまでになった。
 「せっかくバイーアに住んでるから、ここにいる子たちにチャンスをあげたい」と、今年三月にはバイーア州から外国にダンサーやカポエリスタを派遣する企業を設立した。
 現在、ゆかさんはスウィング・バイアーノのチームに所属し、練習している。リオのカーニバルに個人で出場し始めて三年になるそう。夫婦で振り付けを担当したビデオも三本作製し、名古屋にあるブラジル雑貨店に輸出し、好評だという。
 「ブラジル人と結婚したことによって、普通という概念がことごとくぶちのめされた」。その反面、「今まで当たり前だった日本の良さが浮き彫りになってきて、日本人であることに誇りを持てるようになった」と言う。また、「スナック経営をした経験で人間関係の大切さを学んだ。これがブラジル人との対人関係にも活きている」。
 欲しいものは絶対に手に入れるタイプと言うゆかさん。「挑戦に燃える。これからも後悔しないように生きる」と力強く語った。         つづく   (南部サヤカ記者)

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