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100周年機に移民資料拡充=資料館が計画、準備=移民の記録デジタル化

1月1日(日)

 ニッケイコロニアの宝物を次世代に継承していこう―。ブラジル日本移民史料館に収蔵、展示されている史料の数は現時点で、約三万七千二百三十点。書物、写真、レコード、移民が使用していた生活用品、絵画、農具など実に様々だ。これらは、展示されていない収蔵品がほとんど。三、四世と時代が移り変わるにつれて、移民の歴史に精通している人が少なくなり、莫大な史料の管理もままならないのが現状だ。しかし、一世移民がなくなる前に、貴重な歴史を再確認し、しっかりと移民の足跡をブラジルに残していくことが必要。現在は、百周年に向けて「国内百年探検隊」プロジェクトが出されているが、歴史を映像、写真、文章などで記録し、移民文化資料をCDなどデジタル媒体で残していく計画もある。そこで、史料館倉庫に眠ったままの収蔵品のいくつかを探索してみた。

■一般の強力呼びかけ

 移民の歴史を今、残していくことが大事―。ブラジル日本移民史料館から、百周年祭典協会に「国内百年探検隊」プロジェクトが出されている。国内各地に調査班を派遣し、日本移民の歴史を映像、写真、文章などで記録する。移民文化資料をCDなどデジタル媒体で残す計画もあり、二〇〇八年には「日本移民写真展(百年の歴史)」も予定している。写真を整理しデータ化するなど準備に、今取り掛かっている段階だ。
 調査・取材に二年間、収集した素材の整理などに一年間予定していたが、すでに移民百年は二年後に迫っている。スタッフや運転手の人件費、車輌代、交通費、フィルム代、機材購入代、宿泊費など莫大な費用がかかるなどの問題もあり、赤字の同史料館では厳しい状況だ。そのため、百周年記念事業に提案したのだが、実質プロジェクトは頓挫している。
 同計画は、数人の調査班を組み、車に機材を積み込んでビデオ、写真も含めた調査旅行をしてまわる。集まった素材を整理して全伯の主要日系団体会館で巡回展も行う予定。実現すれば、将来への大きな遺産になることが期待されている。
 大井セリア館長は「費用が一番の問題。だから、もう少しみなさんの援助が得られるように独自ではなく、別の百周年プロジェクトと一緒に進めていくかもしれない」と考えを示す。史料館に寄贈して欲しいものの一つにあげたのが、移民が日常生活で使用していたもの。「みんなガラクタだと思って捨ててしまうようなものでも寄贈してください。服や、台所で使っていたもの、食器などたいしたことないようなものでも宝物です」。また、日本から持ってきたものよりも日常生活がよく表れているブラジルで使っていたものを希望している。写真はもちろん、日記の寄贈も重要視している。現在は戦前の日記のほうが多いので戦後移住してきた方の日記が欲しいそうだ。
 十一月十八日に文協で行われた移民史料館会議ではバストス、ペレイラ・バレットなど六ヵ所の史料館代表者が集まった。「お互い協力してやっていこうということになった。全伯単位で。史料館に収蔵されているものをお互い貸し借りもできると思う」と期待を示す。
 また、「自分史を書いたら必ず、みんなのためにも寄贈してください。正確な歴史は難しいかもしれないけど、生活を知れるのでお願いします」と呼びかけている。寄贈希望者のため、参考として同館の収蔵する移民史料のいくつかを、つぎに紹介する。問い合わせ電話は11・3209・5465まで。

■「だて巻」利用し簡単服

 移民の知恵が洋服にも表れている。着物の帯下に締める、だて巻という幅が狭く薄い布地を利用した服だ。だて巻特有の薄い生地を使うことによって、日本より何倍も暑いブラジルの気候に対処するために作製された。今からおよそ七十五年前に着ていたということもあり、色あせた部分が目立つ。
 寄贈者は二世の須藤かずこさん。一九三〇年代に、母が作製し、使用していたとみられる服を寄贈した。彼女もすでに故人となっているそうだが、史料館関係者の話によると「母は普段着るものをほとんど持ってこんかった。暑さに対応できるような服もなかったし、仕方なく着物の要らない部分を使用して作った、と話していた」と説明した。また、「着物といったら豪華で利用できないイメージだけど着物の下に着るものや帯を利用するのは、移民らしい知恵だと思う」とも話していた。 
 移民の多くは「晴れ着」を一着は持ってきていたという。また、その当時着物は高く売れたため、借金を抱えていた移民はそれを売ってやりくりしていたとも聞く。その話を思い出した花嫁移民のひとりは「悲しかった。何着か持ってきていたけど全部売った。皆に『日本から持ってきたもん全てなくさんと成功せん』となぐさめられたこともあった」と振り返る。その点、着物の下に着るものを利用して、洋服を作った人は多かったそうだ。

■笠戸丸渡航者の移民原簿

 一九〇八年、神戸港から第一回移民七百八十一人を乗せた移民船笠戸丸がブラジルへ向けて出港した。ブラジル移民を最初に手がけた移民会社は東洋移民会社であったが、出発間際になって中止された。そのため、実際第一回移民を渡航させたのは皇国植民合資会社だった。移民送り出しで、これら移民会社は大きな役割を果たした。乗船名簿作成もその成果の一つだ。
 同史料館に収蔵されている笠戸丸乗船者名簿は、皇国植民合資会社の「皇国第一回移民原簿」と竹村植民商館の「竹村第一回移民原簿」の二冊。前者は、移民を送り出したあと、財政難に陥り、倒産。社長をつとめた水野龍の出身地である高知県の富豪、竹村興右衛門に権利を譲った。七千六百三十人を渡航させたが、再び水野に権利を譲り、新たに南米植民会社を設立した。
 第一回移民は沖縄県が一番多く三百三十六人、次いで鹿児島県の百七十一人。定説では七百八十一人とされているが、皇国植民名簿には七百八十七人と記録されている。笠戸丸移民最後の生き残りとされている中川トミさん(98)の名前はこの名簿に記されている。
    ◎
 ブラジル移民の創始者といわれる水野龍は、一九三八年に渡伯。身をもって現地を調査し、移民送り出しに多大な貢献をした。保証金として十万円の納入を政府から命じられたが、調達できたのは五万円だけだった。そのため水野は、笠戸丸移民から「あとで必ず返す」という約束で少しずつお金を徴収したが、資本がなく、とうとう返せなかったという。人文科学研究所の宮尾進顧問は「本当に返さなかったかは定かではないけど、笠戸丸移民に多かった沖縄の人は、今でも悪く言う人が多い」と説明する。

■作者不明の田付大使胸像

 初代特命全権大使としてブラジルに赴任した田付七太(一八六七―一九三一)の「田付日記」には、ブラジル官民との交渉、他国外交官との交流など公務内容が書かれている。「大正十三年(一九二四八月より同十四年(一九二五)七月まで)」「大正十四年(一九二五)八月より同十五年(一九二六)二月まで、ミナス・ジェライス巡視、ノロエステ再巡視」「大正十五年(一九二六)三月より昭和元年(一九二六)十二月二十五日まで、アマゾン流域巡視」の三冊。「アマゾン入植へのいきさつ」「八五低資」など移民史に占める重要な部分も含まれている。
 田付七太が大使に赴任した一九二三年は、有色人種の入国を禁止・制限する「フィデリス・レイス法案」が連邦下院に提出されるなど、排日気運の盛んな時期だった。五年後には廃案となるものの、田付大使は二六年までの任期中、常に排日の風潮に対処しなければならなかった。
 二四年はイジドーロ革命勃発で、在留邦人(当時の移民の呼称)の保護につとめた。翌年は前年から続いていた干ばつが深刻化。サンパウロ州奥地の日本人農家の被害が顕著になり、日本政府から低利資金を融資してもらいたいという請願が各地で起こった。
 大使は特に被害が大きいとみられたノロエステ線、奥ソロカバナ線の日本人集団地を視察、救済の必要を肌で感じた。そして二六年、八十五万円の低利資金の貸出しを請願、翌年、正金銀行を通して融資され、初期邦人独立農が更生された。
 そのほか、日本人の発展地として北伯にも注目。二六年にベレン、マナウスなどを視察し、後のアマゾン進出に道を開いた。
 また、日記には「御尊父の歌」と記された「千早振る 神代ながらの天園(アマゾン)に 移し植えなむ 大和民草」という歌が添付されていた。同史料館元副館長の中山保己さんによれば、「田付大使が父を思って歌ったものか、田付大使の息子が父を思って歌ったものだろう」と推測している。
 これら日記は、移民八十周年記念に、田付景一氏から寄贈された。同氏は一九六一年に三代目の大使に就任。父親に続く父子二代にわたるブラジル大使として話題になった。
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 「八五低資」によって窮状を脱した人々のなかに、低資実現に尽力した田付大使に対して感謝の気持ちを表そうと二七年、胸像を制作し田付大使の元へ贈った者がいた。残念ながら誰が作ったかは不明。これも景一氏が寄贈し、同史料館に収蔵されている。一九八七年には胸像の寄贈をきっかけに「初代ブラジル大使田付七太展」が行われた。

■熱鉄塊を使ったアイロン

 鉄でできた機械の中に炭を入れて、その熱で洋服のしわをのばすアイロンは移民生活の中でもよく使用されていた。しかし、炭の代わりに、熱した鉄のかたまりを砲弾型の機械に入れて使うタイプのアイロンはあまりなかったという。元副館長の中山さんも「このようなものは聞いたことがなかった」と話す。
 さびた鉄のかたまりもアイロンの中にそのまま残されていた。日本から持ってきたものか、こちらで作ったものかは不明。寄贈者は、沖縄県出身の伊佐川源栄さんとなっている。昔は鉄の棒を熱して、それを服にあててしわを伸ばしていたため、そこから考え出されたものかもしれない、との意見もある。
 宮尾進人文科学研究所顧問も「聞いたことないね。ブラジルの田舎では使っていたかも」と話している。
同品は、一九八九年に史料館が主催で開催した「珍品展」に出展された。

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