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第50回=パウリスタ・スポーツ賞=連載(終)=後世に残る名監督=高柳清さん

2006年3月21日(火)

 コロニア野球界は、この人の名前を決して忘れない。
 高柳清さん(83)は戦前戦後を通して球界で活躍し、一九六六年にパウリスタ・スポーツ賞を受賞した。その後もめざましい活躍をして多大な功績を残している。
 三二年、十歳の時に家族で移住、ブラ拓のバストス植民地に入植した。その翌年の三三年には、十一歳で少年野球選手として地元でデビューしている。
 三七年には全伯最年少の十五歳で第一回全伯大会(青年の部)に出場。初陣を飾り、続いて四〇年まで連続出場した。
 四一年にサンパウロに移転。コチア産業組合に入り「バストスの豆戦艦来る」と言われたが、同年十二月に第二次世界大戦が始まり、四五年までスポーツ活動は停止された。
 四六年に野球が再開され、この年にサンパウロ野球連盟が発足した。高柳さんはコチアを代表して創立に参画し、野球活動を再開。同年から七四年までコペル・コチア・チームの監督(当初は選手兼)として名門コペル・コチアをつくり上げた。
 六六年から八五年まではパウリスタ野球連盟の技術部長として後進の育成に尽力、幾多の名選手を育てている。
 この間、ニカラグア、チリ、アルゼンチン、ベネズエラ、エクアドル、日本などに遠征、豊富な国際体験をもった。
 六五年の全伯青年大会ではコチアに、同年の全伯青年選抜大会ではサンパウロに優勝旗をもたらし、球界随一の名監督と謳われ、六六年にパウリスタ・スポーツ賞に輝いた。
 八六年にブラジル野球・ソフトボール連盟が結成されると、その代表に就任。日本移民八十周年記念行事として日本から大学選抜軍、慶応大学、高校選抜軍招待の折衝に当たり成功を収めるなど、渉外面でも活躍している。
 八八年に球連を勇退。その後も乞われて若手選手を指導した。教え子は数百人を教え、現在の球連指導者の大半を占める。高柳さんは「私の長い野球生涯の誇りです」と締めくくった。
 ちなみに、九一年に専務補佐役を最後にコチア産組を退職。〇一年から〇四年まで群馬県人会長を歴任した。

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