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アマンバイが入植五十周年=パラグアイ=国内外から500人が集う=ブラジルからも出席、同船会も

2006年6月28日(水)

 パラグアイのアマンバイ移住地が今年入植五十周年を迎え、去る五月二十一日、ペドロ・フアン・カバリェロ市のアマンバイ日本人会館で記念式典が行われた。同国日本人移住の中で唯一、コーヒー園の雇用農として入植が進められたアマンバイ。耕地の倒産、農業への移行、退耕など幾多の苦難を経て、五十年の歴史を刻んできた。式典には各地から約五百人が出席、半世紀の歩みに思いをはせた。
 アマンバイへの日本人入植は、米国人クラレンセ・ジョンソン氏が経営するCAFE耕地の雇用農として始まる。第一陣三十六家族二百六十人が、サントスからソロカバナ線を経て国境の町ポンタポランに到着したのが五六年五月二十三日。以後五八年まで八次にわたり同地への入植が続いた。
 「コーヒー園の管理のため」移住してきたアマンバイ入植者だったが、現実は異なるものだった。移住地の二十五周年記念誌によれば、雇用農は「ブラジルの奴隷解放によりコーヒー農園の奴隷に代わるべきものとして導入されたもので、労働条件や待遇は厳しいものだった」とある。
 パスポートは取り上げられ、各耕地の門には施錠をされ、監督の見張りがあったりと、移住者の自由は拘束された状態だった。さらに五九年にはCAFE社が倒産。農業に転じた移住者に対して海外移住振興会社から融資も行われたが、移住者の約六割が退耕したという。
 二十一日の記念式典には国内各地をはじめ、日本、ブラジルなど国外から約五百人が参集。アマンバイ県知事、ペドロ・フアン・カバリェロ市長など地元関係者、飯野建郎駐パラグアイ大使、斎藤寛志JICAパラグアイ所長など日本政府機関代表のほか、国内日系団体から多くの来賓が訪れた。
 午前八時半から戦没者追悼の慰霊祭。飯野大使や斉藤JICA所長、パラグアイ日本人会連合会の前原弘道副会長が、三百六十人の先人に追悼の辞を述べた。
 五十周年記念碑を除幕。続いて開かれた記念式典でロべルト・アセべト・アマンバイ県知事は「日系移住者の勤勉さ、類まれなる努力とともにアマンバイ県は発展してきた」とあいさつ、日本人移住者の功績を称えた。
 式典では八十歳以上の高年齢者の表彰式も行われ、日本人会の原本功会長から感謝状が渡された。消防車の供与式も行われ、飯野大使より日本人会を通じて同市の消防隊長に贈られた。
 正午からは記念の祝賀会が開かれ、アマンバイ日本学校生徒による合唱や舞踊部の踊りが披露された。

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