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ブラジルの新年展望=守りから攻めへ=企業移住の時代来る

2007年1月1日付け

 【エスタード・デ・サンパウロ紙十月五日】ブラジルの二〇〇七年は、企業移住時代といえそうだ。国際市場へ打って出るには、ブラジルの英雄である必要はない。企業の国際化を図ることだ。外国で活躍するブラジル企業は、製造業に始まり運送、物流、フランチャイズ、銀行業、農作物栽培、工事請負など多岐にわたっている。一方、国内生産が世界生産に占める割合は年々、落ち込んでいる。過保護経済は一九九〇年に終わったが、国内企業は座して死を待つよりは打って出ることだ。
 〇七年に向けたブラジル産業の展望を覗いてみる。フルラン産業開発相は〇七年を「外国進出の年」とし、それを義務と位置付けした。そのために進出先の国の法律と商慣習をよく学び、投資資金を有効に使うよう呼びかけた。
 ブラジルには十五年前、多国籍企業という言葉がなかった。しかし、五年前にはブラジル生まれの多国籍企業が十五社以上誕生し、外国へ芽を伸ばし始めた。それは進出希望ではなく、進出を余儀なくされたのだ。その後ブラジルという服が小さくて、大きな服を求めて多数の企業が外国へ出ていった。
 政府は社会経済開発銀行(BNDES)を通じて海外雄飛を志す企業に資金を融資している。外国進出する企業への資金援助は、国内でも不足する雇用をさらに輸出するとの非難がある。企業は外国で足腰を鍛えることにより国内でも業績が飛躍し、結果として雇用創出につながっている。
 〇七年は座して死を待つより打って出るなら、案ずるより生むは易し。〇七年は企業多国籍化の年であり、グローバリゼーションへ対応する年である。ブラジルでゆったりした経営を営んでいたときよりも、反応の速度が問われることを覚悟しなければならない。
 外国での経営は、社長室が機上にあって雲の上から指令をする。機上の社長室は、ブラジル本社をマザー(母体)工場とし、研究所や実験工場から新しい製作技法やシステム革新の研究報告を受け、世界各地の生産工場へ命令する。これが、〇七年の企業経営スタイルらしい。
 〇七年の経営者は、グローバル・プレイヤーだ。企業は規模の大きさではなく、本国での技術革新の程度が問われる。エンブラエルの場合、オランダやスエーデン、米国の同業他社より技術革新に秀でていたため、同業者の縄張りを奪えたのだ。
 国際市場は、ボーダレス(国境の概念がない)時代にある。外国進出を果たした企業のブラジル本社は、マザー工場化する。本社は作戦本部であり、産業文化を生み出しながら、国内市場をも育てる。国内市場は実験場なのだ。外国投資は雇用とチャンスと人材を輸出する。
 企業誘致は一九九〇年で終わった。それ以後は外国進出の時代に入った。ブラジルから外国進出の草分けは、ポン・デ・アスーカルのポルトガル進出で、その後に次々と各社が続いた。中には国際感覚に乏しく失敗した例もあるが、体験は後日のため貴重である。
 中米にエタノール精製所を設置したブラジル企業は多い。米国という大市場へエタノールを輸出するには、ブラジルから輸出するより有利なのだ。地理的理由だけではなく、中米は米国の輸入優先地域である。米国は年間、最低八億リットルのエタノール輸入を必要としている。
 ブラジル企業の中国進出第一号は、サンタカタリーナ州のエンブラコである。冷蔵庫やフリーザーのコンプレッサー・メーカーだ。スエーデンの大企業ACCが業界シェア一五%のところ、エンブラコは二〇%で健闘している。
 ポルト・アレグレの接着剤メーカー・アルテコーラは小企業だが、外国進出で二つのジンクスを破った。外国進出は、大企業の専売特許ではないこと。小企業でも営業戦略があれば、チャンスがある好例を地域社会にとくと見せた。当初は不安定な売上げと売れ筋のバラつきに悩まされ、輸出インフラが重要であることに気付いた。
 一方、失敗例を見てみる。国境を越えたら、各市場は異なることを認識すべきである。シバ氏のチャイナ・イン・ボックスは、ブエノス・アイレスの店を閉めた。同氏の専門は出前であることを忘れて、中国人の飯店と競合。同じ辛味でも、民族によって趣向が微妙に異なる。現地の事情に詳しい共営者を迎えなかったのも一因といえる。

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