ホーム | 日系社会ニュース | 戦前最後の移民船で渡伯=「ブラジルに来て助かった」=サンパウロ市=森廣 登さん=「このまま戦争が続いたらどうなることかと思っていた。勝ち負けでなく、早く終わればいいと思っていたよ」

戦前最後の移民船で渡伯=「ブラジルに来て助かった」=サンパウロ市=森廣 登さん=「このまま戦争が続いたらどうなることかと思っていた。勝ち負けでなく、早く終わればいいと思っていたよ」

2007年1月1日付け

 「心配することなく、ブラジルに来る決心がついた」。一九〇六年生まれ、昨年百歳を迎えた森廣登さん(岡山県出身、サンパウロ市在住)は、四一年にブラジル行きを決めたときの心境をそう話す。
 「戦争が始まって仕事が厳しかった。戦争にどんどん出て行くので人が足らなかったんや。午前、午後、晩と働いて残業ばっかやった」。
 いったん戦地から戻って来た友人の話を聞く。占領地下での悲惨な状況、「一度戻ってきても何度も死ぬまで戦場に連れていかれる」と友人はつぶやいていた。
 森廣さんは激しい労働に体調を崩し、田舎に帰って養生していたが、すでに子供が三人。「食糧事情が悪くて、切符がないと米も手に入らない。こんなんで五人も暮らしていけない」。当時、各地を廻っていた移民奨励の映像を見てブラジル行きを申し込んだという。
 戦前最後の移民船「ぶえのすあいれす丸」に乗り込み、森廣さん一家はブラジルを目指した。「戦争が激しくなって出航できず、神戸で一カ月間過ごしましたよ」。同船は、パナマ運河でも安全な通行を保障されず、マゼラン海峡を迂回して、ようやくブラジルにたどり着いた。
 リンス管内のフィゲイラ植民地、ガララペス近隣、アラサツーバ、カンポス・ド・ジョルダンなどをまわりながら農業に従事。「先輩がいて、言葉がわからなくてもブラジルでは不自由しなかった」。
 四五年、日本の敗戦を知らせたのは姉の手紙だった。「(周りで)勝った、負けたと言っていたから黙ってたけど手紙を疑うわけにもいかないし」。
 日本での辛かった生活に比べれば、ブラジルではそれなりに暮らせた。戦争が終わった事実が重要で、勝ち負けは森廣さんにとってたいした問題ではなかった。
 「勝ち負けなど関係ない。食べ物はないし、仕事はきつくなるし、病気にもなる。このまま戦争が続いたらどうなることかと思っていた。勝ち負けでなく、早く終わればいいと思っていたよ」と振り返った。
 戦後、ジョアノポリス、イタチバを経て、六十歳からマイリポランで本格的に日本語教師をやった。
 日系人大会を機に、初帰国を果たし、滞日中に住職の位を取得。七十歳から東本願寺で住職をはじめ、マリンガにも五年間滞在した。九十二歳まで続けた。
 「私は日本とブラジルの両方を知っているけれど、『ブラジルに来たから助かった』と思ってる。まあ、私らはコーヒー園でコロノをして困ったわけではないからこう言えるのだろうけど」。
 ブラジルでの苦労は「二人の子供と家内を亡くしたこと」。いまは子供五人、孫十一人、曾孫九人に囲まれて、百歳の誕生会を盛大に祝ってもらった。
 明治、大正、昭和、平成と四つの時代を生きてきた森廣さん。「明治天皇が亡くなられたときには、黒いリボンをつけて一年間喪に服しました。大正天皇のご即位は本当立派な式だったし、昭和天皇は大演習で岡山に来られました。侍従武官の宮さまを印象的に覚えています」。
 百周年については「一九〇八年に私は(数え年で)三歳だった。つまり笠戸丸を見送ったことになる。見送ったきりじゃいかんからな。ブラジルにはあとから来たけど、笠戸丸が百周年を迎えるまで、生きておらないかん」と力強く語った。

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