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懐かしよき時代=コロニアの〃情報屋〃だったビアジャンテ=奥地で歓迎され「モテてモテてたいへん」=新年親睦会、往年の勢いなく=それでもなお〃青年〃

2007年1月16日付け

 五十年以上の伝統を誇るビアジャンテ倶楽部(橋浦行雄世話人代表)の新年親睦会が十二日、サンパウロ市リベルダーデ区の万里食堂で開かれた。今年の参加者は十人。元ビアジャンテたちは、仲間との再会を喜び、往時を懐かしむように旧交を温めあった。
 「現在生きているビアジャンテの人は大変貴重です」――。橋浦代表は席上、あいさつをこう切りだした。昨年だけで常連の参加者二人がなくなった。平均年齢は八十歳を越える。そんな中、最年長の金子明さん(90)は今年も元気な姿をみせ、参加者を喜ばせた。
 挨拶のあと、亡くなった先輩たちへ一分間の黙祷を捧げ、乾杯。「昔に比べたらやけに参加者も少なくなったね」。そんな言葉が出ながらも、日本食と酒の食卓には笑い声が絶えない。
 同倶楽部は一九四九年頃に創設された。創立二年目頃、サンパウロ市市場近くの新ときわレストランで新年会が始まった。平田進連邦下議、サンパウロ総領事館、南米銀行、各邦字紙などの代表も集まり、当時二百人以上いたといわれるビアジャンテの集まりとして絶大な影響力をもっていた。
 ビアジャンテは行商だ。最盛期は一九六〇年代ころ。多くが日系の商会に所属し、日用品や嗜好品の注文を取るために、ブラジル各地を歩き回った。一度旅に出ると、一カ月は家に帰らないこともざらだった。
 山根英夫さん(78、二世)は五〇年代に五年間、ビアジャンテとして働いた。西谷商会に所属し、アシース市からランシャリーア市などソロカバナ線を中心に歩いた。えんぴつや物差し、雑記帳などの学用品を売った。
 「それまで農業しかやったことなかったから、商品の種類を覚えるだけでも大変でね。かえってお客さんから教えてもらったこともあるくらいでしたよ」。駆け出しの頃の様子をそんな風に思い出し、ビールを傾ける。
 戦前から戦後にかけて二十年近く、ビアジャンテをしたのは川村久加須さん(89)だ。叔父が扱う日本の美術品の見本を持って各地を歩いた。
 川村さんにとって苦い〃思い出〃は日本人が敵性国民となった戦中期。ミナスジェライス州のベロ・オリゾンテ市に着いたときのことだ。地元の警察官に有無も言わさずいきなり逮捕され、一週間、留置場に入れられた。
 「スパイだと勘違いしたんでしょう。外国人登録証明書をもっていても関係なくてね。ひどいことするもんだなって。それで日本が戦争に勝ったら絶対仕返ししてやるんだって思ってたよ」。
 ビアジャンテは、通信手段が不便だったころ、日本やサンパウロの情報を日本人集団地に伝える〃情報屋〃の役割を担っていた。ブラジル政府からみれば、行商の格好をしたスパイに映ったのだ。
 「よぉし、俺も歌うか」。宴もたけなわ。誰ともなく席を立ち自慢の声を響かせ始めた。蜂屋商会に所属した大谷パウロさん(84)は古賀政男作品の昭和の流行歌、「影を慕いて」を熱唱。会場から大きな手拍子が起こった。
 ビアジャンテは営業の専門家であり芸達者だ。明るい性格の持ち主が多く、先端の情報を知るサンパウロの若者は、地方の若い女性にとって憧れの存在だった。
 「行くところ、行くところ彼女がいてね、ビアジャンテは、ほんともてたもんだよ」。そう口を揃える元ビアジャンテたち。何千人も参加した歌謡コンテストで優勝した大谷さんはミス・コロニアを「自分の歌を聞かせて口説いた」ほどだ。
 会は午前十一時半から午後三時過ぎまで続いた。「だいぶ前のことで忘れちまったけど、仲間も多くてほんとあの頃は楽しい時代だったんだよな」。参加者たちはそうじみじみ語り、一人二人と家路についた。
 橋浦さんは「今回、病気だったり仕事が忙しかった人が来年参加してくれたら嬉しい。今後はコロニアの生き証人として記録を残す作業もしたいし、新年会もできる限り続けていきたい」と話した。

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