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セッちゃん、神戸で「講演」=初めて「芸」以外で人前に=「役者冥利」ということば=ブラジルで身にしみた

2007年2月6日付け

セッちゃん、神戸で「講演」=初めて「芸」以外で人前に=「役者冥利」ということば=ブラジルで身にしみた

 丹下さんはサンパウロでレストランの経営を始めて、店は成功する。
――一番やりたかったことは、何百ってある、移住地に、おじいちゃん、おばあちゃんがたくさんいて、そこへ行きたかったの。それまでは浪曲語りがやってて、大きな劇団はなかった。私は劇団を組みたかったから、そのうちの一人に声かけたら、二十何人って劇団ができたの。うれしかったわー。
 丹下セツ子劇団の旅が始まった。
――何千キロ、何万キロって歩きましたね。北島三郎さんとか仲良くさせてもらって、北海道から九州を廻って大変って言われますけど、北海道って何キロ?九州って何キロ?こっちゃ、二日間バス乗りっぱなしで、タイヤがぬかるみにはまるようなところにも行ってるんだいってね。
 行った先での苦労も尽きない。
――マナウスってところにに行った時には、ミカン箱で組んだ照明台上で、ライトをつけたらこうもりが飛ぶようなところ。道中考えても「もう二度と行きたくない」。
 だが、丹下さんはブラジルに留まった。
――日本人ってすごいんですよ。どこにでもいる。私がブラジルで骨を埋めようって思ったのは、会ったこともない人が「丹下さんですね。頑張ってください」って。温かいというか、今の日本にはないものというか。
――講演終わってそこのおじいちゃん、おばあちゃんが「生きてて良かった」って泣くんですね。だから、そういうのに会えたからブラジルに残ったんだと思う。
――日本の有名役者さんに「おまえみたいに芝居が好きで舞台が好きなのがブラジルに居ちゃいけない。帰っておいで」って何回もいってもらったですけど、でも、私言うんですよね。「お父さんたちに、しがみついて泣いてくれるお客さんがいますか」って。「私にはいるんだよ」って。役者冥利って言葉があれば、私はブラジルに行ってそれを覚えたって言うんですよね。
 丹下さんは、九年前に母親を亡くした。話題は母親のことに移る。
――最初のころは、本当に恨みました。顔を見たら殺してやろうかってくらい。でも、母が死ぬ前に「芝居が好きで舞台が好きな人間をブラジルにやって本当にかわいそうなことした」って「借りを返したい」って言うんですよ。でも私は、「大丈夫よお母さん。私はブラジルでスターだから。私は幸せだから」って。
――今は感謝してます。何かがなかったら、こんなに幸せだと思えることもなかったんだなって。母は五月に亡くなりましたけど、連絡もらって帰るまでに四日。その時にはやっぱりブラジルは遠いなーって、感じました。
日本の人たちに向けてのメッセージ。
――ブラジルってとこはみんな、皆苦労してる。一旗上げようと思いながら田舎に入って苦労して、病気になって、マラリアに罹ったり。やっとよくなったら子供がいる。学校いれたい、子供がなんとかなるまでは、って親は一生懸命働いた。
――でも、それが終わったら何やる?やるもんなんにもないから、盆踊りだとか、ラジオ体操だとかやるわけです。七夕祭りだとか移民祭とかで、うちわ一つ持って踊るってことが、すごく楽しみな国なんです。私たちはそれがすばらしいもんだなんて思ったことはない。ただ、楽しんでやってるんだなって、心が温かくなるところがあるんですよ。
――日本から来た人にとってみたら、ビックリするけれど、移民してブラジルに来て苦労して、今こうしてあるんだってこと、そこを見てもらいたい。
 丹下さんの今後は?
――私には子供も何にもいませんけど、仲間がたくさんいますから、本当にブラジルで幸せだなって思ってます。これからも何ができるか分かりませんけど、百年祭に向けて頑張っていきたいなってところです。

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