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「こんなに集まるなんて感激」=最果てのキナリー植民地初めての出身者の集い=約半世紀ぶりの再会も、30人余が旧交温め=サンパウロ市

ニッケイ新聞 2007年10月3日付け

 アクレ州に開設されたキナリー植民地出身者の集いが九月二十九日、サンパウロ市内のレストラン「トライーラ」で開かれ、入植者やその家族など三十人あまりが出席した。サンパウロ市、近郊のほか、遠くはマナウスやポルト・ベーリョ、ゴイアニアからも参加。今もキナリーに住む入植者も訪れた。一九五九年の入植以来、同地出身者の集いが開かれるのは初めてのこと。四十八年を経た集いの場で、出席者はお互いの近況を語り合い、旧交を温めた。
 キナリー植民地はアクレ州都リオ・ブランコ郊外三十キロに開設された日本人植民地。アマゾン源流、ペルーやボリビアとの国境添いに位置する同州は、戦後まもなくのころ、国内でも〃最果ての地〃のような場所だった。
 日本海外協会連合会(海協連、JICAの前身)が受け入れに関わり、五九年の六月と八月に計十三家族が入植した。ゴム、カフェのほか雑穀栽培に従事したが、数年後には多くが同地を離れた。
 初めて開かれたこのたびの出身者会。きっかけは今年四月に行われた「あめりか丸」の同船者会だった。 同船はキナリー第一陣の六家族が乗った移民船。席上、今回世話人をつとめた篠木敏夫さん(64)、大水久雄さん(58)、坂野政信さん(61)らの間で話題に上り、とんとん拍子に今回の開催にいたったという。
 午後一時にはじまった出身者会。冒頭「入植当時は十三歳の少年でしたが、今では既に還暦を過ぎ、おじいちゃんと呼ばれる年になりました」と挨拶した坂野さんは、「家長の大決断で移住され、習慣や言葉の違い、風土病の中、皆さん懸命に頑張られた。本当にご苦労様でした」と述べた。さらに「今日元気に再会でき、絆を再確認できたと思う」と話し、「再来年の入植五十周年に向けてこれからも催しを継続させていきましょう」と呼びかけた。
 この日はサンパウロ市、近郊だけでなく、ポルト・ベーリョやゴイアニア、マナウスなど遠方在住の出身者の姿もあった。
 原ユリ子さん(88、徳島県)が、戦地のビルマから引き上げた夫と一家で移住したのは四十歳の時。「最初は苦しかったですよ。野菜を作っても販売路がない。コーヒーもよくできたけど、アクレ川に流してしまったこともありました」と当時を振り返る。
 「お金が無くて出るに出られなかったんですよ」と笑うユリ子さん。同地で二十年を過ごした後、スザノを経て現在はゴイアニアで次女と暮らす。昨年には日本に暮らす孫の世話をかねて訪日したという。「故郷はいいですよ、どんなに変わってもね。住みよいですよ」と笑顔で話した。
 現在ポルト・ベーリョ在住の川田信一さん(66、長崎県)は十七歳の時、一家八人で入植。五年を同地で過ごし、ロンドニア州のトレーゼ・デ・セッテンブロへ移った。この日は四人で参加。出席者の一人、大水悟さん(56)とは三十年ぶりの再会だったという。「名前を言われて分かりましたよ」。
 キナリーでは現在、二家族の入植家族が牧畜などを営んでいる。今も同地に住む浜口カズ子さん(80、熊本県)はマナウス在住の娘とともに会場を訪れた。「米、マカシェイラ(マンジョッカ)、養鶏、何でもしました」と当時を振り返る。このたびの集いの知らせに「喜びましたよ」と嬉しそうな表情を見せた。
 にぎわう会場で「これだけ集まるとは夢にも思わなかった。感激です」と話す篠木さん。「当時は毎日生活に追われてバタバタしていましたけど、忘れがたい場所。お金に変えられない集まりですよ」、十歳で同地に入った大水さんがその隣で言葉を続ける。
 「植民地を出て以来会っていない人に会えた」と話すのは、サンベルナルド・ド・カンポから参加した大久保敬子さん(59、佐賀県、旧姓・稲田)。「涙が出るほど嬉しかった。呼んでもらって感謝しています」。三年半で離れた同植民地。その後一度も訪れていないという。「いつか行けたらと思います」と話していた。
 出席者は午後三時過ぎまで、食事を囲んで懇談した。会の終了後もそこここで、記念写真を撮る人たちの姿が見られた。

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