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「コチアは生きていた」=30年ぶりのセラード「赤木報告」=連載(8)=技師の調査報告=一世、二世で分かれる=開発危ぶんだ産組理事たち=コチアの英断

ニッケイ新聞 2007年12月25日付け

 セラードの潜在性を見抜き、息子を開発の先発隊として、一九七二年に、ただ一人パラナから送り出した小笠原一二三さんは、息子が成果を見せ始めると同時に、コチア産組の尻を叩き始めた。近い将来に、セラードは一大穀倉地帯に変貌する。この地に十万ヘクタールの土地をコチアが確保して、若者が思い切り世界へ伸びられる舞台を作ってやろうではないか。口下手の小笠原さんが、熱血に燃えてコチアの理事説得にかかった。
 しかし、過去に国家的事業へ、数多く参加して、社会的責任を果たしていたコチアも、小笠原さんの遠大な計画には驚いた。ブラジル人が、何回も挑戦して必ず失敗し、財産を失って行ったセラードに、十万ヘクタールもの巨大な農耕地を作ろうという話は、安易な妥協を許さない、壮大にして、かつ厳しい決断を要求されるプロジェクトだった。当時の農家は、土地を買う時、必ず土地が肥えているかどうかを見た。水が近いか、市場は近いか、地形は平坦かなどを調べるが、セラードは、平坦である以外は、農地としては最悪の条件にある。
 小笠原さんが、余りうるさいので、コチアは仕方なく農業技師をセラードに派遣して、開発の可能性を調査させた。技師達の報告書は、二世技師が有望、一世技師は見込みなし、と結論を出して意見は二つに分かれた。日本で教育を受けた農業技師は、作物の栽培技術は勉強しているが、セラードが将来ブラジルの農業に重要な地位を占める開発地に変るかどうかを、判断する教育は受けていない。
 しかし、日系農業者の次の世代の発展と、まもなく終わる一世農業者の時代に、二世が世界市場へ発展していく基礎を作っておくべきだと考える小笠原さんは、一世技師の判断が気に食わない。後に一世技師を集めて「もっと目を開け。日本の一反百姓のような考えは捨てろ」と警告した。
 小笠原さんは一世ではあるが、四十年間コーヒー栽培に従事し、北パラナのコチア産組を率いている責任と、遠い将来におよぶ構想を練っているうちに、思考は大陸的規模に膨れ上がっていったのである。
 名誉欲を知らない小笠原さんは、もうセラードに憑かれた盲信者のように、信念というより信仰のように、コチアの理事たちを説得する燃える男となっていた。この男のセラードに掛けた情熱は、これから次第に大きなうねりとなって、ミナス州政府、連邦政府を動かし、国家プロジェクトとして、五年間に百八十万ヘクタールの耕地と、百二十万ヘクタールの牧場を造成する、壮大な国家計画であるポロセントロ計画へと発展して行く。
 いまロンドリー市内の墓に眠る小笠原さんは、これも、ごく近くに、最近仲間入りしてきた笠戸丸移民最後の生存者だった中川トミさんと、雑談など交わしながら、セラードに燃えた人生を回顧しているかも知れない。(続く)



「コチアは生きていた」=30年ぶりのセラード「赤木報告」(1)=小笠原一二三さんの先見の明=驚嘆させられる変貌

「コチアは生きていた」=30年ぶりのセラード「赤木報告」(2)=100年前の農地再生され、今は穀倉地帯、なお余裕

「コチアは生きていた」=30年ぶりのセラード「赤木報告」(3)=人工衛星コントロール方式=究極まで生産性を追求=人工衛星操作でトラクターを運転

「コチアは生きていた」=30年ぶりのセラード「赤木報告」(4)=30数家族で「生産株式会社」組織=資材、機械一括購入、労働力も〃共有〃=農家が作る生産株式会社

「コチアは生きていた」=30年ぶりのセラード「赤木報告」(5)=パルナイバ上流農畜産組合の建物=〃昔の泥臭さ〃が消えた=名前を変えたコチア組合

「コチアは生きていた」=30年ぶりのセラード「赤木報告」(6)=日本人は気が狂っている?=入植時、地元住民の見方=「開拓は失敗必至」

「コチアは生きていた」=30年ぶりのセラード「赤木報告」=(7)=産組が開拓に動く前に=長男を〃先遣〃した小笠原さん=日系人がすべてを好転させた

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