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北パラナ、アサイ市の〃日本人家族〃を訪ねて(2)=食後「ごちそうさま」に対して=「お粗末さま」と主婦の答え

ニッケイ新聞 2008年1月18日付け

 「アサイに入植した日本人は二、三年稼いで帰るつもりだったから、平で肥沃な土地はみんなコーヒーや棉畑にしてね。住むところはどこでもよかったんでしょ。だからこんな坂ばかりの街ができたんだよ」。
 市内に急な坂が多い理由を父親に尋ねると、そう教えてくれた。メイン通りのリオデジャネイロ街もゆるやかに波打つような坂がつづく。〃らくだの背中〃との異名もあるらしい。
 標高五百六十メートルに位置するアサイ。トレスバラス移住地の開拓地として一九三二年に造成された。当初、全耕作地はコーヒー栽培が主だったが、四七年に受けた霜の大被害をきっかけに、棉花栽培が本格化した。
 「ぼくも若いときは、アルバイトで綿摘みに友達といったよ」と父親。「綿の実を素早く丁寧に両手でつまないとだめなのよね。うまくやらないと棉の葉で指先が切れたりしてね」。母親も懐かしそうに続けた。
 おっとりと控えめな三世の母親で、アサイからさらに奥の田舎で育った。子どもの頃は赤土の道を歩いて学校まで裸足で通ったという。
 アサイの棉栽培は五〇年代前半まで。パラナ州で納税額が五位に入るほど最盛期を迎えたこともある。その後、大豆や小麦栽培が続いた。現在、市近郊の農業はさとうきび、大豆、とうもろこし畑が中心だ。郊外には、非日系のブラジル人市長が経営するピンガ工場があり、そのピンガを一度飲んだら他のピンガは飲めないほど美味い、と父親が近くまで車を走らせて教えてくれた。
 途中、当時の日本人同士の恋愛事情を尋ねると、アサイのセントロで育った若者は、サンパウロのようにはいかないが、近辺の小さな日本人移住地より〃都会者〃ということで、けっこうモテたという。
 「アサイの男は、田舎の男たちより踊りも話もうまいってことでね。だからたまに男友達みんなで田舎に遊びにいくと、そこの男たちが嫉妬するわけ。アサイから来た男に地元の女の子が取られるわけでね」。
 アサイのバイレで現在の奥さんと知り合ったという父親。その話し振りに、なるほどと納得した。
  ◎  ◎
 記者がお世話になった一家は、アサイ市のメイン通り、リオデジャネイロ街にある。親族ら十人ほどが集まっていた。一家は自宅前で生活雑貨やおもちゃなどを扱う商店を、三世代にわたり経営している。従業員は基本的に日系人(日本人)だけだ。
 記者が到着した三十日の夕方、強い日差しが照らすなか、郊外にある大きな釣り堀に連れて行ってもらった。知人らその兄弟は一時間ほどで十匹以上のチラピアを釣りあげ、下処理して自宅へ。「アサイには遊ぶところが少ないからね。釣り堀には小さいときから来ている」という。
 翌日、大晦日の夕食に昨日釣ったチラピアのフライ、白ご飯や煮しめ、キビなどが並んだ。食事後、「ごちそうさまでした」と知人の母親に言うと、「お粗末さまでした」と控えめに返してくれた。母親のこうした謙遜した日本的な返答に思わず驚いた。日本における記者の周囲にこうしたやりとりがなかったからである。
 年越しの二時間ほど前、一家は四十キロほど離れたロンドリーナ市の本門仏立宗のお寺に向かった。弟夫妻が結婚式をあげた場所で、ここで新年を迎えるのが決まりらしい。本堂には四十人ほどの信者が集まっていたが、その数は例年よりも少なめという。ブラジル人導師のお経にあわせて長らく題目を唱えた後、年越しソバがふるまわれた。
 真夏の紅白に、寺で年越しそばと題目。ブラジルで日本風の年越しに、不思議で懐かしい感覚になった。(池田泰久記者、つづく)



北パラナ、アサイ市の〃日本人家族〃を訪ねて(1)=二世、三世が「日系」と言わない=ごく普通に「日本人」と表現

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