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鹿児島県人会=イタペセリカ支部と手打ち式=創立95周年共に祝いたい=5年間の確執乗り越え

ニッケイ新聞 2008年1月24日付け

 鹿児島県人会(サンパウロ本部、園田昭憲会長)とイタペセリカ・ダ・セーラ支部(田中九十九支部長)が五年の没交渉を経て、手打ち式――。両者の幹部らが十九日、イタペセリカ市内で会合、今年十一月十六日に行なわれる同県人会創立九十五周年式典に向け、一致協力する意思を確認した。二〇〇三年にイタペセリカで行なわれた創立九十周年式典以降、一部の役員らが感情的に対立、約五年間、連絡が途絶えていた。園田会長は、「過去を水に流し、鹿児島県人会創立九十五年を共に祝いたい」との決意を新たに、連携を固めるため、三月には支部長会議を行なうと話している。
 イタペセリカ・ダ・セーラ市の日系コロニアは、「鹿児島村」といわれるほど、同県の坊津(ぼうのつ)や枕崎からの出身者が多く、県人会の十六支部のなかでも本部と強い関係を保っていた。
 そのイタペセリカ支部の会員らが本部に年会費(〇四年から六十レ、〇七年から百レ)を納入しない状態が続いており、毎年四月に行なわれる運動会への個人的な参加のほか、両者の行き来はなくなっていた。一体何があったのか――。 発端は〇三年に同市で行なわれた県人会創立九十周年式典に遡る。
 当時の県人会長は、イタペセリカ市在住で同市名誉市民の田畑稔氏(現在相談役)。式典は、脇田稔副知事(当時)や県議会副議長、県移住家族会長ら百二十人の訪問団を母県から迎え、同市立体育館で華々しく行なわれた。本紙(十月二十一日付け)も「最古の県人会、新たな一歩」と大きく報じている。
 関係者によれば、サンパウロからの出席者のため、市は無料バスを運行するなど全面協力、千五百人もの参加者があり、同地コロニアの面目躍如たるものがあったという。
 不協和音が響きだすのはその後だ。式典などの運営役に自ら名乗り出た梶原祥天氏が個人的な人件費として、一千レアルの報酬を本部に要求。
 田畑元会長は、「県人会の仕事はボランティアでやるもの。そういうことを認めることはできない」と役員会で諮り、これを一蹴した。
 同会長が地元出身ということも手伝ってか、利益誘導を期待した梶原氏や一部の会員らの不満がくすぶり、「なんとなく全体の雰囲気がおかしくなった」と田中支部長は当時を振り返る。
 以来、〇四年から徴収が始まった会費の納入も行なわず、本部との交流も一切なくなったという。
 昨年三月に園田会長が就任、今年五月から始めた会報をイタペセリカ支部にも配布、昨年十一月にあった敬老会でのプレゼントも郵送で会員らに届けた。
 なお、黒字となった今年、各支部や婦人会などに合計五千レアルを賛助金として送っている。
 「会費も払っていないから断ったんだけど…」と田中支部長。昨年来からの園田会長の呼びかけにより、今回の手打ち式となった。
 池上忍名誉会長は、「疎遠になっていたが、以前の関係に戻り、盛り上げていきたい」と話し、田畑相談役も「鹿児島村が会費も払わないのは恥ずかしいこと。全ての責任は私にある」との態度を見せ、天達市雄前会長、徳留清相談役も同調した。
 しかし、いざこざの発端となった梶原氏は本紙の取材に、「(本部は)イタペセリカへの誠意がなかった。いつも日本人会や支部のためにやってきた。報酬などを要求したことはない」とあくまでも知らぬ存ぜぬの態度を通した。
 これに対し、園田会長は、「全てを水に流すということで今日の集まりがある。過去にとらわれず、九十五周年に向け、力を終結したい」と強調した。

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