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サンパウロ式典の周縁=心配された混乱はなし

ニッケイ新聞 2008年6月24日付け

 サンパウロにおける移民百周年記念式典当日の二十一日午前九時過ぎ、会場のアニエンビー・サンボードロモへ向う、チエテ駅前のオニブス・ポントは、長蛇の列だった。しびれをきらして、タクシーを止める人もいたが、車の数は十分ではない。
 第一部祭典の最初のだしものが出るのが午後一時なのに、この出足のよさ。
 雨模様の空。簡易カッパ売りが大声でフィーラの人たちに売りつけようとする。用心して購入する人もけっこう多く、結局、これが丸々半日は役に立った。
 ふだん、サンボードロモへの所要時間は十分程度だが、この日は渋滞した。午前十時をまわるころは四十分くらい要したのではないか。
 十一時ころ、雨が降り出した。観覧席の庇(ひさし)の下で、弁当をかきこむ人々。この時点で観覧席の入りは約半分くらい。正午前後、続々入場。周辺の駐車場も、オニブス、乗用車で埋まり出した。
 ツクルビーから来た、二世半と自称するという平田ジョンさん(62)に、式典に参加した理由をきいた。祭典のことは、人づてに聞いたらしい。少なくとも邦字新聞は読んでいなかった。
 「人から、キコさんと縁のある人が来ると聞いて、見たいと思ってやってきた。きょう来る人はどんな人?」と問い返された。記者は、キコさんのマリードの兄にあたる人、今の天皇の長男で次の天皇になる人、と説明した。納得したようだった。
 奥パウリスタのパラナ川沿いに生まれ、幼少のころは、日本語を話していたが、その後、出聖してからは、日系コロニアとはほとんど交わりはく、日本語とは縁のない生活だった。かなりたどたどしい話し振りだが、意思交換はできる。
 「十年ほど前に父母は相ついで死んだ。きょう。ここに来れたらよかったのに。そのキコさんのクニャードにあたる人を見せたかった」。会場の万単位の群衆を目を細めて見、やはり百年だナ、とつぶやくように言った。
 サンパウロ市内サウーデ区在住の松本グローリアさん(63、二世)は「サンパウロのどこから、こんなにもたくさんの日系の人たちが湧いて来るように集まるんだろう」と驚いた様子。県人会の踊りのグループの仲間から「入場券が余っている、ときいて、もらって来た」。お目当ては、皇太子さまではなく、盛りだくさんあるときいたアトラクションやパレード。「エモシォナンテ!めったに観られない大きさ。来てホントによかった。これからこんなのはないでしょう」。もちろん、最後の花火打ち上げまで居て、興奮にひたりたいということだった。
 定刻の午後一時の十五分前から始めたアトラクション。最初に入場したのはラジオ体操のおばさん、おじさんたち千三百人。ファンファーレのようなメロディとともに拍手がわいた。雨の切れ目。晴れ晴れと、しかし、かなり緊張していた。
 断続的に降る雨にたたられながら、プログラムは順調にすすんだ。カッパを元気に投げ捨ててピスタに飛び出す「大河ダンスチーム」「エイサー太鼓」などの幼年幼女たち。嬉々として、はじけそう。
 午後三時ころ、入場者たちの〃勝負がついた〃。席はほぼ満ちた。皇太子さまの入場を待つ間、徐々に興奮が高まっていく感じ。
 四時十五分ころ、日系の大手旅行社の添乗員に案内された日本からのツアー客が入場を始めた。案内された席がなんと、三階の観覧席である。貴賓席のまん前ではあったが…。熟年世代にはいったと思われる女性が、和服で急なコンクリート階段を上る。よろよろところげ落ちそうなところを、仲間たちが、お尻に手をあてて支える場面も。実際、エラい所が割り当てられたものだ。
 和服で、髪を円形に結い上げた、横須賀市から来たという琴の奏者、古郡雅楽寿さん(60、横須賀国際交流邦楽友会会長)に、サンボードロモという会場で行なわれた祭典についてきいた。皇室を迎えて、ということにはさほどの関心はないようだった。
 「このたびは、文化交流にやって来ました。これが訪伯の主目的です。一週間の予定です。もう演奏会で弾かせてもらいました。私たちが、この百周年祭祭典に文化交流に来たということを、しっかりと書きとどめてください」。
 参加者たちは長い時間をかけて入場した形になったので、入場入り口での混乱は終始なかった。(神)

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