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コラム 樹海

ニッケイ新聞 2008年8月22日付け

 一読者から、「あれだけコロニアに貢献した洗濯屋が、どうして百周年でオメナージェンされないのか」といぶかる電話がかかってきた。もっともな話だ。六月の百周年式典でも特に名前を出されることはなかったし、先日の笠戸丸表彰や外務大臣表彰でも、洗染協会の名前はなかった▼笠戸丸移民の石村清太郎が渡伯十年、一九一八年にサンパウロ市ラバペス街に開店したのが洗濯屋の嚆矢といわれる。戦後間もないころのサンパウロ市には三千軒以上の日系洗濯屋がいた。彼らがいたからこそ、日系最初の田村幸重連邦下議を国政に押し上げることができ、日系全世帯を訪ねた移民五十周年の日系人口実態調査ができたことは有名な話だ▼五七年、ルーラ大統領が十二歳の時、サンパウロ市イピランガ区で初めて得た職が日系洗濯屋だった。記者会見で、大統領本人が「息子と同様によく扱ってくれた」と感謝までしていた▼サンパウロ市地域洗濯屋シンジケート(Sindilav)会報六月号の表紙には、古すぎて状態も悪く修復不可能といわれていた、教皇ヨハネス二十三世の法服を復活させ、バチカン法王庁に奇跡申請中の洗濯屋・追田空海雄さんの個人史が紹介されていた▼ブラジル人記者が書いたであろう、その文章の最後には「日本人は洗濯屋をやりながら子弟を教育し、医者、弁護士、技師などの成功者を育ててきた。異文化の中で障害にぶつかり、全力を尽くしてきたことは、我々に大きな教訓を与えている」と締められている▼そんな親たちのおかげで成功を手に入れた息子世代は、洗濯屋の数の二~三倍はいるはずだ。百周年の年にこそ、親世代に感謝し、顕彰する声を上げてもいいのではないか。(深)

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