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実りの葡萄の名産地=ペトロリーナ・ジュアゼイロを訪ねて=連載〈4・終〉=06年誕生の若手農協=米・欧州に5千トン出荷

ニッケイ新聞 2008年11月1日付け

 「何とか頑張ってますよ」。大きな体を揺らせて笑うのは、ノーヴァ・アリアンサ農業協同組合(COANA)の藤山エリアス会長(44、二世)。
 COANAは、〇六年に大規模生産を行う五家族が加盟した新農協。年間に五千六百トンを生産、アメリカ、欧州に輸出する。
 収穫したブドウを新鮮なまま保存するため、急速冷凍庫四機、巨大な冷蔵庫が二機(大三百トン、小百五十トン)に二百五十万レアルを投資。
 最盛期になれば、サルヴァドール、レシーフェ、フォルタレーザ、ナタルの各港にブドウを満載にしたトラックを送り出す。
 藤山会長は、パラー州サント・アントニオ・デ・タウアの出身。ベレンの商船大学を卒業、電気技師の資格を取り、地元でマモンやマラクジャを作っていたが、ペトロリーナにいた知人のところに遊びに来たことから移住を決めた。
 「一年中栽培できるっていうのが最大の魅力だった」。九二年に三万ドルを借り、十二へクタールを一万二千レアルで買った。トントン拍子に経営は進み、「九四年の終わりに借金は全部返しましたよ」
 藤山会長は、地域の生産量が上がっていることから、「主流の種無しブドウが〇一年に出始めたころはキロ当り四ドル。現在は二ドルと半分。五年から十年以内に一・五ドルまでは下がるのは当然」と話す。
 「値段が落ちても買い手が変わるだけ。アジア地域に新しい市場を開拓したい」と鼻息は荒い。
 COANAは昨年末、ブドウ輸出協会であるBGMA(Brasilian Grapes market Asociation)を脱退、直接輸出する組合へと転換を図った。
 「だから今、英語を勉強し直して、インターネット取引も僕の仕事」。今年すでに数回ヨーロッパを訪問、直接交渉した。協会を出た不安もあったが、「取引先の業者がCOANAの品物なら、って言ってくれた」と喜ぶ。すでに今年の四、五月、全体の一割ほどを輸出、試運転は上々だ。
 「大事なのは、いい品質を保つこと」。大胆に事業を進めながらも、日本的な職人気質を覗かせた。
      ◎
 「ブエノス・アイレスに出回っているマンゴーの六割はうちのじゃないかな」と話すのは、越山末美さん(55、長崎県出身)。
 五歳で家族とともに福江島から移住、モジ・ダス・クルーゼスに入植した。柿、蔬菜の栽培に携わっていた三十歳のとき、コチア第一陣としてクラサへ。
 まずは三十ヘクタールから始めたが、慣れない地の営農は、「組合の技術員がいたので問題なかった」とコチアの支援を評価する。 九三年には会社「スペシャル・フルーツ」(従業員千八百人)を設立し、マンゴーは年間一万二千トンを生産、ヨーロッパやアルゼンチンに輸出、ブドウ生産は六千トン、四千ヘクタールを所有するファゼンデイロだ。
 〇四年の小泉純一郎元首相来伯で唯一の両国間合意となったマンゴー規制緩和により、サンフランシスコ流域からの対日輸出は年間平均五百トンを超える。越山さんも地中海ミバエの駆除や温水殺菌のための施設も設けた。
 「しかし…」と表情を雲らせる。注文の量が安定しないうえに輸送経費が高すぎることから、今年の輸出は考えていないという。
 〇六年には二百トン送ったが、翌年には注文が一気に四分の一の五十トンに落ちた。
 マンゴーは、船便での輸送ができず、空路に頼るほかない。サンパウロまでの陸路、そして日本までの輸送費を賄うには安定した量の発注が決め手になる。
 最大の輸出先、アメリカには、週三百トンを三カ月送り続ける。〇六年は日本より価格がよく、同時期の輸出を考えるとアメリカを優先にせざるを得ない。
 しかし今年朗報が入った。今まではトミー種だった輸出品目に、日本人好みのケント種が解禁になったのだ。
 「米国市場ではブラジルのブドウの人気が出てきている。これから二十年は大丈夫じゃないかな」と話す。最近はグレープフルーツの栽培も始めるなど、常に模索も忘れない。
 「今年の出荷が終わったら? 毎年アマゾンに釣りにいくのが楽しみなんだ」。青い空に笑顔が広がった。
(おわり、堀江剛史記者)

写真=2006年創立のアリアンサ農業協同組合の藤山エリアス会長

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