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第1回=子供を階段から蹴落とす=貧乏旅行でのぞいた現実

ニッケイ新聞 2008年11月22日付け

 彼ほど庶民階級のブラジル人に親身になって尽くしてきた人は少ない。定森徹さん(40、千葉県出身)は移民ではない。だが、大学卒業以来、十七年をブラジルで過ごしている変り種だ。サンパウロ市ではモンチ・アズールのファベーラ、セアラ州、そして現在はアマゾナス州マニコレ市に住み、JICAブラジル事務所の支援で、遠隔地住民の生活向上に尽くすプロジェクトを進めている。一貫して庶民の生活向上に関わるボランティア活動を行う定森さんの軌跡を追った。(深沢正雪記者)

 国際ボランティア活動に足を踏み入れたきっかけは、学生時代に中南米を放浪して感じた格差社会の現実だった。
 八九年、大学三年生の時、メキシコから貧乏旅行でアルゼンチンまで下った。ブエノス・アイレスのレストランで、Tボーンステーキを食べていた定森さんのテーブルに、路上生活している子供が近寄り「骨をくれ」と頼んだ。
 「いいよ」と渡したとたん、店員が飛んできて子供を店から引きずり出して、入り口の階段から蹴り落とした。
 「犬にもやらないこと」と定森さんは唖然とし、強烈なショックを受けた。「なんでこんなことが起きるのか」。日本とは全く違う現実が目の前に展開された。「貧困についてもっと知らなければ」と考え込んだ。
 九二年、日伯交流協会の研修生として来伯。約一年間、サンベルナルド・ド・カンポ市へ派遣された。「一年ぐらいファベーラで活動してみたいと思ったのが運の尽き」と笑う。スラム街住人が家を作ろうと、レンガを一個一個積んでいるのを手伝った。その時、サンパウロ市郊外のモンチ・アズールでボランティア活動していた小貫大輔さんと知り合い、人生が大きく変わっていく。
 翌九三年三月に研修期間を終えて帰国したが、郵政省の国際ボランティア貯金に出していたプロジェクトが通り、七月にはブラジルに舞い戻った。以来、一貫して当地を舞台に社会活動をしてきた。
 サンパウロ市近郊のファベーラに診療所や保育園を作った。一般大衆にその危険性や予防知識が十分に知られていなかったエイズの啓蒙キャンペーンを繰り広げ、九七年にはエイズ孤児院も建設した。
 その後、セアラ州に場所を移し、人間的出産方法を広める「ブラジル家族計画母子保健プロジェクト」の調整員として〇一年まで四年間を過ごした。その後、再びサンパウロ市に戻り、エイズ患者の子供向けの保育園を作る手伝いもした。「父兄が患者同士の方がやはり話しやすい」。ようやくエイズ治療薬が普及し、以前に比べエイズ孤児が減るなどの変化が起きていた。
 〇一年、プロジェクトが一段落し、たまたま一時帰国した時、現在所属している日本のNGO団体HANDSからマニコレの話が回ってきた。病気の予防や健康相談をするアジェンチ・コミュニターリオ・デ・サウーデ(地域保健員)への知識啓蒙、訓練をするプロジェクトを始めた。
 定森さんは「半径二百キロ以内には日本人は僕だけです」と笑う。大半の町に日系人が住むサンパウロ州などとは、同じブラジルでもまったく異なる様相だ。日系人は一人、サンパウロ市から赴任したカトリックの修道女がいるのみだ。
 そんな中で定森さんはHANDSブラジル事務所のプロジェクトマネージャーとして四人の現地スタッフを引き連れて孤軍奮闘、四年前には同町のブラジル人女性と結婚し、二子にも恵まれた。(つづく)※今連載の取材はJICAブラジル事務所の協力によるもの。

写真=マニコレのHANDSブラジル事務所で仕事をする定森さん

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