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ブラジル薙刀の歴史=小林成十=第4回

ニッケイ新聞 2009年4月4日付け

河野八千代先生

 戦後であるが、一九五七年渡伯された河野八千代先生薙刀天道流三段の名を挙げたい。
 河野八千代先生は山口県徳山市出身で大正十三年出生。
 薙刀との出会いは女学校時代で、天道流竹内師範に師事し、師範学校を卒業のときは三段を取得していた。しかし日本では戦後の事情もあり、また主意である教育のほうに重きを置き、薙刀指導には力をいれなかった。
 渡伯は一九五七年四月十八日、サントス丸で家族六人で移住。配耕地先はサンパウロ州ガルサ市の近郊スイッサ耕地に入植した。
 その後、一九六一年、サンベルナルド市へ移転、同市瑞穂日語学校教師として勤務。一九六七年同校を一時退職、別校サンベルナルド日語学校で一九八六年まで勤務するも、再び瑞穂日語学校教師として復職、現在に至る。
 河野先生は瑞穂村でも教鞭一筋に勤め、薙刀指導の機会は無かったが、同地に長年在住する剣道の泰斗菊池英二先生の下で、多くの大会で薙刀演武を披露した。
 その中で幾つかを紹介する。一九六二年七月、西本願寺で行われた第四回全伯幼少年選手権剣道大会では天道流薙刀型を紹介、また模範試合として薙刀対二刀(穎川輝邦先生対河野女史)、剣対薙刀(谷口又夫錬士対河野女史)が行われた。
 一九七〇年一月にピラチニンガ・クラブで行われた第十一回全伯剣道大会で、先生は薙刀の型の披露と薙刀対剣道の模範試合を清田五段と行った。
 また、同年七月同クラブで開かれた第十二回全伯剣道大会でも、先生は鈴木師範と同模範試合を行った。
 一時期瑞穂村でも薙刀に興味を持ち習いたいという者も居たが、防具などの問題で実現には至らなかった。
 河野先生は高齢ながら現在も瑞穂村住人の人々から尊敬を受け、元気に日語学校で教鞭活動を続けておられる。

現在のブラジル薙刀情勢

 現在の「ブラジルなぎなた協会」が正式に発足したのは一九九三年、ロサンゼルスでの国際親善試合出場を機に設立された。それ以前、一九八〇年、日本から高橋初江範士(直心影流)が初めて来伯され、薙刀のデモンストレーションを行った。それをきっかけに、心あるメンバーが十名ほど集まって練習を始めたのが、現在のブラジル薙刀の復活といえる。
 協会発足以前は上記メンバー同好会として活動していたが、高橋範士の勧めと、初代会長の宮田カルロス氏の協力でブラジルなぎなた協会が設立された。設立のメリットは世界大会に参加、先生の派遣、国際なぎなた連盟に公式加盟が可能になったことである。
 森田泰江先生は東京都で一九五〇年出生、一九七七年二月に渡伯、薙刀との出合いはブラジルに来てからで、上記高橋初江範士が一九八〇年に来伯した時から始まる。
 現在ブラジルなぎなた協会の会長は森田泰江先生三段が勤めておられるが、その役員メンバー九人の中に四名のブラジル人がいることからは、会長及び関係者が如何にこの国で日系、ブラジル人を問わずに薙刀の普及に努力されているかが伺える。
 門下生の人数はおよそ三十人で、当地で二年間続けている弟子さんは二十三名あり、リオ州では五名ほどである。またこの門下生の大半が非日系人である。現在、主に森田先生が指導に当たっておられるが安部恵子三段も協力している。
 練習は毎週佐賀県人会で水曜日午後七時半から九時半、土曜日は午前八時半から九時四十五分まで開かれている。   (つづく)

写真=1970年7月、ピニェイロスのピラチニンガ体育館にて。河野八千代天道流3段



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