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グァタパラに最古の日本人学校?=「コロニア史が変わる」=1枚の写真から判明か=亡妻が結んだ不思議な縁

ニッケイ新聞 2009年4月4日付け

 従来、コロニア最古の日本人学校は一九一五年にサンパウロ市コンデ街に開設された大正小学校と言われてきたが、先週、広島県から送られてきた一枚の写真により、実はグァタパラ耕地にあった日本人学校である可能性が出てきた。子供たちと一緒に平野運平らしき人物も写っている。入り口には「――巴羅小学校」との表札も掲げられており、少なくとも一九一三年以前から活動していたようだ。その写真の持ち主の女性は、移住後に広島県に帰国して専門学校を立ち上げ、地元の名士にまでなった成功者で、さらに話題を呼びそうだ。

 「コロニア史が変わるかもしれません」。島根県人会会長の古田川英雄さん(66、島根)と、グァタパラ農事文化体育協会の川上淳会長(76、茨城)、新田築副会長(58、島根)が一枚の写真を見せて、そういった。
 きっかけになったのは、古田川会長の妻、揚子さんが残した本だった。七六年に移住した揚子さんが、九〇年代初頭に帰郷した折、母校の裁縫学校を訪問して、校長に「今ブラジルに住んでいます」と報告すると「じゃあ、この私の本を読みなさい」と手渡されたのが、『宏深の夢』(小井手伊勢子著、一九九二年、参修社)だった。その時、本人から何も説明はなかった。
 ある時、娘がその本をパラパラめくっていて、「パパイ、ブラジルのことがいっぱい書いてある」というので、古田川会長が手にとってみると「グアタパラ」の字が目に入った。実は小井手さんは古参移民で、帰国後にその裁縫学校を創立した。
 同県人会のグァタパラ支部長も務める新田さんに本を送ると、「これは大発見かも知れない」ということなった。
 昨年九月、揚子さんが訪日した折、母校を再訪し「もっと史料がないか」とお願いした。先週、同校から古田川夫妻宛てで一枚の写真が送られてきた。〇一年に他界した小井手さんの遺品の中から見つかったものだと、娘の桂子さん(83)が送ってきた。
 だが、問い合わせた本人、揚子さんはこの二月に亡くなっていた。
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 その本によれば、小井手さんは一九一三年に雲海丸で、七歳の時に五人家族の一員として渡伯した。第五回移民船の第二雲海丸だ。
 最初モジアナのコロニア・サンジョゼーのカフェ耕地に入り、一四年十一月にグァタパラ耕地に「日本人学校があるから」との理由で移った。「女子師範学校出身の木村先生が、一年生から六年生までの四十三人を、一人で受け持っていた」(二十三頁)とある。
 一五年八月に着手された平野植民地開拓と入れ替わるように、一七年に「総監督の平野さんがほかに土地を買い、平野植民地を結成して、グアタパラの日本人ほとんどを連れて行ったので、日本人学校は廃校になった」(二十四頁)。
 資金をためた一家をのせたわかさ丸は、二四年二月に東京に着いた。移民時代にレース編みなどをイタリア移民から習っていたが、さらに帰国後に和裁も習い、三二年に小井手学園を創立した。現在も広島ファッションビジネス専門学校として志が受け継がれている。
 川上会長は「小井手さんの孫、ひ孫の方にグァタパラを訪れてほしい。本に書かれた耕地生活はとても明るくて、苦労ばかりの初期移民のイメージを一新するものだ」と喜ぶ。新田副会長も「笠戸丸からずっと継続して入ったのはグァタパラだけ。日本人学校があってもおかしくない。これは大変な発見です」とし、写真の「巴羅(パラ)小学校」の上には「グァタ」の音を当てた漢字があったはずと指摘した。
 妻が残した不思議な縁に、古田川会長は「我々と深い関係のあるグァタパラから帰国した人が、日本で成功し、今も続く学校を創立したことに驚いた。しかもそこで…」と、母校から先週届いた封筒の宛先にあった愛妻の名前を見ながら感慨深そうに語った。

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