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問題児から変身遂げる北東伯=経済回復のけん引役に=民衆の英雄生む伝説の地

ニッケイ新聞 2010年1月1日付け

 世界的な金融危機に伴う先行き不安で始まった2009年、他国に先駆けて回復基調に入ったと見られていたブラジルも、第3四半期国内総生産(GDP)成長は期待した程ではなく、年間GDPも0・26%のマイナス成長で終る見通しとの中銀調査結果が12月14日に発表された。それでも、先進国の経済回復度から見れば、それなりの実を残したといえるブラジルの経済を牽引したのは、北東伯だった。

問題児からけん引役へ

 北東伯というと、セルトン(奥地)、旱魃などの言葉に続き、貧困、教育や保健衛生面の遅れというイメージがついてくるが、12月10日付エスタード紙にある様に、09年の北東伯の経済成長は国内平均を上回り、全国の年間GDP成長率が1%前後と見られていた時、バイア、ペルナンブコ両州はその3~4倍の成長を記録するだろうといわれていた程だ。
 同地域の成長は前記2州に限らず、域内全体で報告されており、12月8日にサンパウロ市で開かれた北東伯フォーラムで、「北東伯は、国内の問題地域という立場から脱皮し、ブラジルの成長に寄与する事の出来る地域と化した」と述べたペルナンブコ州知事の言葉が、09年の北東伯の立場と誇りを如実に物語っている。
 国際的な経済危機の中で、いち早く回復基調に乗ったと見られたブラジル。その中でも、国の経済を牽引した北東伯では、一体何が起きていたのか。
 ブラジルの経済回復と成長の鍵となったのは、国内消費であるとは皆が認めるところだが、北東伯の強みは、生活扶助(ボルサ・ファミリア)など、政府主導の社会福祉システムの恩恵を強く受けていること。
 政府の社会開発と飢餓対策予算のおよそ半分が同地域に投入されてきた事が、同地域の購買力低下を回避させ、結果的に地域経済を底支えし、国内平均を上回る経済成長へとつながるきっかけを作ったといえる。
 もちろん、政府の資金供出と共に、州毎の取組みもあった。

大胆な免税処置が奏功

 国内の最貧地域とされてきた北東伯の泣き所の一つは、他地域の生産物に依存する物品流入地域である事。州内消費の70%は他州から購入するペルナンブコ州など、商品流通サービス税(ICMS)を他州に払う事はあっても、他州から受け取る事は少ない州が集まる同地域が、経済力をつける事は容易ではない。先のフォーラムでも、社会格差の解消のために、税制面での改革も必要だと訴えられた所以だ。
 一方、政府が減税処置をとることで国民の消費意欲を煽り、工業生産などにも好結果を得たのと同様、バイア州はICMSの90%という大胆な免税処置で、Fordの工場誘致に成功した。
 その他、環境許可取得の遅れなどの問題はあるものの、政府の経済活性化計画(PAC)の目玉でもあるサンフランシスコ河疎水工事や、大型水力発電所建設計画など、北東伯への投資計画はかなりの数に上る。
 また、国民からの支持率の高さで群を抜くルーラ大統領や、叩かれても叩かれても再び権力の座に戻ってくる、サルネイ上院議長やコーロル上院議員といった政治家の名も、北東伯の底力の表れと言えなくもない。
 これらの金融危機や社会格差、北東伯の厳しい自然などに思いを巡らす内に思い出されるのが、1800年代末から1900年代初めにかけ、北東伯を襲った旱魃の苦しみとそれを巡る貧しさとの戦いの歴史だ。

英雄生んだ貧困の歴史

 1889年の共和制樹立で国民の生活は変わるかに見えたが、20世紀初頭のブラジルには64万8153の農園があり、数の上では4%の100ヘクタール以上の農園が、総面積の60%を占めていたという事実からも明らかな様に、当時の富の集中や貧富の差の大きさは現在以上。
 北東伯でも、農村住民の大半は土地を持たず、外界からも孤立。大農場主の言いなりにならざるを得ない状況だった。
 それに輪をかけたのが19世紀末に頻発した激しい旱魃。1877年から79年の大旱魃だけで30万人もの死者が出たのだから、1888年から89年、1898年、1900年、1915年と続いた旱魃が農民達を痛めつけてきた様子は、想像に難くない。
 この様な厳しい状況の中で、職もない労働者達に残された道は、ゴムやコーヒーの景気に沸くアマゾン地方や南東伯に移住するか、カンガッソと呼ばれる強盗団や宗教的(密教的)運動に加わるかだった。

カンガセイロ達の暗躍

 金融危機表面化以降、強盗や窃盗の類の犯罪が増えたことは記憶に新しいが、19世紀から20世紀の北東部で結成された武装盗賊団の代表といえば、何といってもヴィルグリーノ・フェレイラ・ダ・シウヴァ、通称ランピオンだろう。
 独特の半月型の帽子を被り、セルトン中を荒らしまわったカンガセイロ達の内、最も恐れられたというランピオンは、火縄銃の火を明かり代わりに使ったという逸話から渾名がついた人物。その妻マリア・ゴメス・デ・オリヴェイラ、通称マリア・ボニータと共に、時には100人を超すメンバーを擁した集団を統率した。1918年から1938年まで、大土地所有者を好んで襲撃し、現金や食糧を奪う一方、他の盗賊団の襲撃から守る事を含む、用心棒的な役割も果たした。何百人もの人を殺した殺人者と恐れられた一方、ロビン・フッド的義賊とも称されたのがランピオンだ。

カヌードスの乱

 一方、抑圧に対する奥地住民の抵抗の中で最も知られているのが、アントニオ・V・メンデス・マシエル、通称コンセリェイロ(助言者)が率いた「カヌードスの乱」だろう。
 世界の終末や救世主出現、地上天国などを説く托鉢僧コンセリェイロは、信者となった人々と共に、社会の不正についても糾弾しながら、バイア州奥地のカヌードスに辿り着き、1893年から独自の教えに基づいた小国家を建設。近隣農場からの貴重な労働力流出なども招き、1897年には3万人を擁した小国家は、共和制確立を目指す国の法律や納税義務も無視し、地域や国が煙たがる存在となった。
 これが、政府や農場主達の反発を呼び、4度にわたる軍の派遣と抵抗の歴史を刻んだ訳だが、信徒集団が銃などの武器を手に戦ったのがカヌードスの群れであった。

奇跡の人シセロ神父

 一方、同じ頃セアラ州南部カリリー地方で、シセロ・ロマン・バチスタ神父による宗教運動が起きた。1870年に司祭として叙階後、1972年にジュアゼイロ・ド・ノルテに移動。ここで、土地の人々の共感と信頼を得た神父は、1889年の聖体が血に変わるという奇跡など、数々の奇跡により、聖職位階剥奪などの憂き目を見る。
 その後、ローマ教皇に謁見し、処罰が取り消されたが、セアラ州司教が彼を許さなかったため、かえって民衆から崇拝される様になったシセロ神父は、やがて、ジュアゼイロ市長やセアラ州副知事なども歴任。1934年に90歳で亡くなったが、今もジュアゼイロの町には、その功績を称え、奇跡を求める多くの巡礼者達が訪れている。
 現在、バチカンでは、シセロ神父を聖人として認めるための再審査中だが、1度拒否された聖人審査が再び行われ、法王自ら審査を急ぐよう促しているという事に、シセロ神父への人望の厚さと人々に与えた影響の大きさが窺える。

不利な条件下でも台頭する余力を持つ地域

 黒人奴隷の末裔に当たる人も多く、今も社会格差に泣く北東伯。旱魃などの厳しい自然条件下、特別な産業もなかった地域の人々を励まし、生きる希望を与えてきたのがこれら3人に限らない事は、国民的歌手ルイス・ゴンザガらの活躍からも明らかだが、北東伯は今、風力発電その他で新たな注目も集めている。
 PAC諸事業他、2010年にはラ米一の造船所建設の話もある北東伯。従来開発の手が伸びなかった地域の開発や、車所有率がまだ低かったため、サンパウロ州などが新車販売に占める割合低下に泣いた09年も車両販売を伸ばすなど、消費力の拡大は依然続くと見られる北東伯だけに、従来の問題児がブラジル躍進の牽引車となる傾向は、今しばらくは続きそうだ。
 まだまだ、D、Eクラスの割合が高く、政府の社会福祉政策に頼る部分が大きいとはいえ、風光明媚な海岸などの文化・観光資源にも恵まれた北東伯。「水を飲む時は井戸を掘った人々のことを忘れてはならない」というが、貧困や社会格差克服のため、政府や州の開発計画などに加え、苦境と戦う歴史を経て培われてきた潜在的な力を統合発揮するならば、北東伯が牽引車の言葉は今年も変わらない事だろう。

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