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二世とニッポン語問題=―コロニアの良識にうったえる―=アンドウ・ゼンパチ=第5回=血に対する迷信

ニッケイ新聞 2010年2月18日付け

 そしてグルーポを出て、ブラジル人の社会で働くとか、都会の中学校へ進むとかによって、一部のものの人間像はますますブラジル化してくるが、グルーポを出ただけで、そのままニッポン人集団地にとどまって、親たちの仕事(おもに農業)を手つだうものの人間像は、せっかくグルーポ時代につけくわえられ、ブラジル的にかなり変形されたのに、またニッポン文化だけの生活でニッポン的な色彩のつよいものになってくる。
 とにかく、二世というものの人間像は、大部分がこうした経路をたどって形成されているので、ブラジル人ではあっても、ブラジル人を親にもつものとは大いにちがったものである。一言でいえば二世は、文化的にはニッポン人でもなく、ブラジル人でもなく、合の子すなわちメスチッソにほかならない。
 自身では、ニッポン語はすっかり忘れてしゃべれないし、ブラジル人相手に働いているのだから、ニッポン文化のエイキョウはなくなっているという二世さえ、一度、おさない時に身についたニッポン色は、たとえ、ふだん表面に現われていなくても、からだの中にかくれひそんでいるもので、それが、ぜんぜんかき消えることはありえないのである。
 ニッポンのことわざに「三つ子のたましい百まで」というが、今日の社会心理学者の研究によっても、人間の考え方、行動などの主要な特徴は、ふつう五歳までにできあがってしまう、ということがいっぱんに認められているのである。
 また、一世の中には、二世にはニッポン人の血が流れているのだから、ほっておいてもニッポン語を話し、ニッポン人らしくなるのが当然で、そうならぬのは、本人のリョウケンがまちがっているからで、ケシカラヌことだとフンガイする人もあるが、これもまちがいである。
 人間は動物とちがって育て方によっては、親と同じになるものではない。イヌの子は、生れてすぐ親からはなして、ネコに育てられても、ウシのちちで人間が育てても、大きくなると、親そっくりのイヌになる。けっして、ネコのなきごえをまねないし、人間のまねもしない。動物は、本能だけで生活するので、人間のように、見おぼえ、ききおぼえたことを身につけていくものではない。もし人間も親の血がつづいているだけで親と同じようになるのだったら、動物と同じで、しつけや教育などの必要はなくなるだろう。
 血は文化とは関係がないものである。親からイデンされるものは、人種的な体質で、この点は、ふつうの動物と同じことであるが、人間の子が人間になるのは、人間である親に生れおちてから育てられて、親の身についている文化をまねておぼえ、それを自分のものにしていけるからである。
 だから、ニッポン人の子どもでも、サルが育てたら、けっして人間にはならない。まねをして見おぼえるという能力が本能よりも強いために、サルに育てられれば、サルのまねをしてサルのような怪物になってしまうだけである。
 血に対する迷信は、ニッポン人の間には、おどろくほど根づよくはびこっているようだ。この迷信をうちやぶらないと子どもの教育もあやまることがあるし、二世に対する見方も、まがったものになる。
 人間の子が、人間にならなかった実例はいくらでもあるが、社会学者の間で有名になっている例を一つだけかいてみよう。(つづく)

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