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二世とニッポン語問題=―コロニアの良識にうったえる―=アンドウ・ゼンパチ=第8回=一世、二世の協力とコロニア

ニッケイ新聞 2010年2月24日付け

 二世は、ニッポン移民の子として生れたところに、ふつうのブラジル人とはちがう性格がすでにある。二世は、コロニアと切りはなせない運命的なつながりをもつて生れてきているので、ニッポン移民のブラジルにおける発展、ひいては、ブラジル社会への貢献をより盛大に、効果的にするためには一世と二世の力強い協力が、絶対に必要である。二世との協力なくして、コロニアの大きな繁栄は期待されないのだ。
 われわれは、日ごろコロニアというコトバを何気なしに使っているが、コロニアという特殊な社会を形成しているものは、一世とそれにつながる二世とである。したがって、一世と二世のつながりが文化的に、あるいは社会心理的に密接であるかないかということは、コロニアの経済的および文化的な発展に大きなかかわりがある。
 こういう見地から、わたしは、二世の教育は、もっと、はっきりした、具体的な理念のもとに行われなければならぬということを痛感している。
 理想的なA形の人間像をもつ二世をつくる教育は、どうしたらいいかという、新しい問題について考える必要がある。またニッポン語教育のゆるがせにできない理由も、ここにおいて何人も異論のないものになるだろう。
 わたしのニッポン語教育必要論は、ただ、ニッポン人の子孫だからというだけの観念的なものではない。同じ子孫であっても、三世については、それが、一世がコロニアで支配的である間は、コロニアの構成分子となりうるだろうが、二世が支配的な時代になれば、日系社会とよばれるコロニアの存在は、もはや、よほど色彩のうすれたものになるだろうし、それに二世は三世とニッポン文化によってのつながりがなければ、社会的な活動が充分にできないという一世のような片輪ではない。それゆえ三世は100%、ブラジル人であっても、一向さしつかえないものである。

外国語教育令の改訂をのぞむ

 わたしは、さきに、「二世の人間像」という一文で、二世のニッポン語習得は、コロニアにとっても、ブラジル社会にとっても、きわめて有能なA型の二世をつくるために絶対に必要であるということをのべたが、二世のニッポン語教育は、実際問題として、その実行が困難な状態にある。したがって、この障害をうち破らぬかぎり、ニッポン語教育必要論を、どんなに叫んで見たところで、とうてい有効な成果をあげることはできるものではない。
 だから、われわれは、まず、日語教育の実行を困難にし、または、その結果を不満足なものにさせている大きな障害を、とりのぞくことに、全力をそそぐべきである。この障害は、いうまでもなく、現行の教育法令が、外国語教育に対して、年令および先生の資格について、ひどい制限を規定していることにある。
 この法令(現行の外国語教育令によればサンパウロ、サントス市では、10歳以上、その他の場所では、14歳以上でなければ、外国語を学校で教えることができず、教師は、検定試験をうけて資格を認められたものに限るが、サンパウロ市とサントス市以外は、外国人が教師となることはできないのである)を、忠実に守れば、サンパウロおよびサントスの両都市をのぞいては、ニッポン語教育は、ほとんど禁止にちかい状態におかれることになる。(つづく)

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