ホーム | 日系社会ニュース | 「龍馬の夢は移住開拓だった」=原口教授が会場沸かす=排除しない共生の道求め=「今こそ彼の生き方を」

「龍馬の夢は移住開拓だった」=原口教授が会場沸かす=排除しない共生の道求め=「今こそ彼の生き方を」

ニッケイ新聞 2010年10月23日付け

 「龍馬の夢は北海道で実現している。彼の共生思想、人間の和を作る考え方が移住に生かされていればアイヌとの関係も変わっていただろう」。20日に宮城県人会館で行われた講演会「なぜ今、竜馬なのか」で、鹿児島大学の原口泉教授はそう語り、もし龍馬が生きていれば移住や開拓に人生を費やしていた可能性を指摘した。〃ブラジル移民の祖〃水野龍(1859~1951年)も高知出身であり、龍馬(1835~1867年)が生きていればその海外雄飛の想いが共鳴しあっていたかもしれないとの想像も膨らむ講演内容だった。

 笠戸丸にも多数の高知県人が搭乗していたのはもちろん、水野龍以外にも、コチア産組創立者の下元健吉(1897~1957年)、3回も国外追放令を出された日伯新聞社主の三浦鑿(1882~1945年)、海外植民学校を創立してアマゾナス州マウエスに卒業生を送り出した崎山比佐衛(1875~1941年)、衆院議員までやってから米国を経てブラジル移住した西原清東(1861~1939年)などの高知県出身の著名な初期移民は多い。
 「笠戸丸の時は、龍馬が生きていれば73歳」と原口教授。年齢的に渡伯はしなくても、移住事業にはなんらかの形で関わっていた可能性は否定できないようだ。
 北添佶磨や、神戸海軍操練所の塾生であった望月亀弥太などと共に、龍馬の蝦夷地(北海道)開拓への夢は1864年頃からあり、死ぬまで宿願であったようだ。
 多くの人が死ぬ戦の道ではなく、蝦夷地に新しい世界を作って新天地にするという平和的な解決法こそが、龍馬らしい排除しない考え方だったと原口教授は力説する。「もし彼が移住していればアイヌなどへの先住民差別もなく、より平和な世界になったかも」。
 1867年に龍馬は暗殺され、翌年に明治政府成立。〃元年もの〃と呼ばれるハワイ移民が海を渡った。「当時、蝦夷へ行くのもハワイもグアムも、同じような感覚だった」という。
 もちろん歴史はそのように進まなかったが、坂本家自体は1897(明治30)年、5代当主の直寛が一族を挙げて北海道に移住したため、高知には同家の人間はないという。
 NHKの大河ドラマ『篤姫』の時代考証や、収録が終わったばかりの同ドラマ『龍馬伝』にも深く関わっている原口教授は、「世界に通じる龍馬の生き方や多くの人の足跡を、大河ドラマに協力することを通して伝えていきたい」と語り、大きな拍手が会場から沸いた。
  ☆   ☆
 このほかに原口教授の話を聞く機会は次の2回予定されている。
【映画上映会と原口先生を囲む会】23日午後2時から映画『北辰斜めにさすところ』上映、5時から原口教授を囲む会。会場=鹿児島県人会(Rua Itajobi, 54, Pacaenbu)。電話は11・3862・2540。誰でも入場可、参加無料。
【原口先生の講義を聞く会】テーマ「日本と明治維新」。26日午前10時半から。ブラジル日本語センター(Rua Manoel de Paiva, 45, Vila Mariana)。電話11・5579・6513。誰でも入場可、参加無料。

image_print