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日本語教育リレーエッセイ=第5回=ありがとう=スザノ金剛寺学園=上野晴美

ニッケイ新聞 2010年11月13日付け

 「こら、家の中では、日本語でしゃべりなさい」と言う両親のしかる声。幼い頃私と兄がポルトガル語で話していた時によく言われていた言葉です。私にとって、その言葉がとても心に残っていました。
 「どうして日本語で言わなくちゃいけないの」。私にはよくわかりませんでした。でも両親が一生けんめいにしかってくれたその言葉があるから今の私がいるのです。
 あの時両親が何も言ってくれなかったら私にどんな日本語があったのでしょう、多分聞くことはわかっても話すことは出来なかったでしょう。それがスピーチコンテストに参加できるようにまでなるなんて夢のようです。うるさいぐらいしつこかったその言葉が、本当は深くて愛情のこもった言葉だったとは思いもしませんでした。
 まず最初に、私に一番強く日本語をすすめてくれたのは父でした。昔すんでいたイタクアは日系人が少ないため、日系人や日本語学校が沢山ある隣の町、スザノに引っ越しました。よく考えると、日本語の環境が整っている所に住めば、自然と日本語になれると言う父の引っ越し作戦だったのです。
 昔すんでいた町は父の仕事場があり、両親は毎日スザノからイタクアまで行ったり来たりして、疲れるのを知っていたはずなのに、私と兄のためにスザノに引っ越ししました。
 父はなぜこんなに私達に日本語の勉強をさせようとしたのか、それは父が若い頃、日本へ遊びに行った時、あることに困ったのです。東京駅ででした。駅のシステムや看板が漢字だらけで、漢字をほぼ知っていたと思い込んでいた父は、迷ったのです。もうひとつ困ったことがあったそうです。切符をどうやって買えばいいのかがわからなくて、通りかかっていた一人の女性に声をかけました。「あの、すみません」。そのとたん、急に逃げられたそうです。父はびっくりしました。
 ブラジルは人が気がるに答えてくれます。日本人はそのときの状況や立場をよく考えないと、相手にしてくれないことにきづきました。習慣や礼儀が違うことを知ったのです。このことから父は、私と兄が日系人として少しでも日本の習慣や礼儀を覚えさせたかったのです。
 そして私達兄弟は幼稚園から日本語学校へ通いました。最初の頃は、遊ぶのが楽しくてしかたありませんでした。だんだん勉強をしていくに連れ日本語に興味を持ち始めました。
 日本語学校はブラジル学校といろいろ違っていました。たとえば「こんにちは」という挨拶は、日本語学校に着いたらすぐ言う習慣になっています。でもブラジル学校の方では、スーッとクラスへ入り親しい友達だけに挨拶するのです。
 日本語学校では、生徒達は皆仲良くて家族の様な感じです。日本語の勉強だけではなく、日本語のドラマやゲームなどの話で盛り上がります。授業中、あまりにも話をするのが楽しくて授業のことを忘れてしまうこともあり、先生によく叱られています。「ポルトガル語ばっかり話していないで、日本語で話しなさい!!」とここまで両親と同じようにしかられています。それでも私は、日本語学校のことが大好きです。
 もう一人私を支えてくれた人は、従姉妹です。幼いとき、いつも「ちびまるこちゃん」、「ドラえもん」、「アンパンマン」などのビデオを見せてくれました。大事にしている漫画の本もくれました。
 私は、飽きる程何度も見たり、読んだりして主人公になったつもりで話したり、主題歌を歌ったりしていました。幼い時は、映像を見るだけで楽しかったのです。でもだんだんと言葉の意味がわかってくると、内容が理解でき、作者の言いたい所、伝えたい所がわかりだし、楽しくなりますます日本語が好きになりました。
 今の目標は、従姉妹や兄の日本語能力を超えることです。まだ遠い夢だけど一歩ずつ進んでいます。そして将来の夢は日本語とかかわる仕事をやりたいと思っています。
 もしもいつか誰かが「日本語をやってて良かったですか」と聞いたら、私は、迷わず「はい、良かったです」と答えます。それはいろんな夢がかない、いろいろな人に出会い、いろいろなことを知り、いろいろな感動を得ることが出来たからです。私の見る世界すべてが変わり広がりました。日本文化は素敵です。だから私に日本語を伝えてくれて、皆さんありがとう。

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