ホーム | 日系社会ニュース | 懐旧と復活のモジアナ線=第36回県連移民の故郷巡り=第7回=グァタパラ=悲運の人徳者・弘田監督=拓魂碑前で「故郷」合唱

懐旧と復活のモジアナ線=第36回県連移民の故郷巡り=第7回=グァタパラ=悲運の人徳者・弘田監督=拓魂碑前で「故郷」合唱

ニッケイ新聞 2011年4月28日付け

 同文協副会長の林良雄さんの労作『我がグァタパラ耕地』(2006年、134頁)によれば、弘田さんは1874年12月生まれ、高知県出身。1910年に第2回移民船旅順丸で渡伯した。1915年に平野運平が建設した平野植民地に賛同して自ら入植するも、その年の暮れには実の姉文野專を同地初のマラリア病犠牲者として失った。さらに「千代太氏は1920年には事業拡大のため日本へ帰郷し、同郷、親戚の人達を連れ立ってグァタパラ耕地に戻る」と記述され。1946年9月に病没とある。
 弘田氏の未亡人・光野さんも65年3月にリンコン市に於いて80歳で亡くなった。「グァタパラを離れたのは、戦後移民が(1962年)入植することが決まったので醜態をさらすことを避けるため、植田とういちさん(弘田さんの甥)は聖市へ移転」とある。
 故郷巡り一行が訪れたグァタパラ移住地は戦後造成されたもので、笠戸丸移民ら初期入植者が入った同名の耕地は少し離れた隣接地だ。弘田さんが亡くなったのはさらに別のリンコン市だった。
 川上会長は、「弘田千代太さんはグァタパラ耕地監督になった後、平野運平による平野植民地造成に共鳴し、日本から大勢の一族郎党を引き連れて入植したが、結果的にその多くがマラリアで亡くなった」と一行を前に語り、石田さんは悲しそうな表情で聞き入った。
 さらに「そのため弘田さんは、親族を呼び寄せて死なせてしまったという十字架を一生背負い続けた。弘田さんは、あちこちの耕地で失敗した人を受け入れては〃再生工場〃のように再び旅立たせるような人を助ける大変立派な人だった。でも、それ以降は一切人の表には立たずに過ごしたと聞いている」との解釈をのべた。
 08年には日本から弘田さんの姪が来て百周年顕彰を受け取ったという。この時には、リンコンの弘田さんの墓地の前で特別な供養も実施した。「平野さんと同じように、弘田さんも偉かった」と川上会長は繰り返し、人徳者・弘田千代太監督の功績は、歴史に名を残した平野運平に匹敵することを強調した。
 一行は移住地内の日本人墓地に移動した。ここには77年、同地創立15周年記念事業として建立された拓魂碑がある。
 『我がグァタパラ耕地』(219頁)によれば戦後、同移住地に移民が入植した際、バストスからは草分けの畑中仙次郎、谷口章(ブラ拓工場長)、山中三郎(コチア評議員)、織田守男(バストス週報発行者)ら一行が激励に訪れ、入植者一同と懇談した。
 その席上、畑中氏は「グァタパラ旧耕地の墓地には、笠戸丸以来のコロノの人々400人以上の先駆移民の霊が無縁仏となって眠っている。その人々は諸君が半紀を隔て地主として、この地に永住して来たことをどれ程喜んでいるか分からない。毎年のお盆には皆でお詣りをして供養してあげてほしい」との話があった。ところが旧耕地の法律で廃墓地とされ、荒れるままだったのを見かねて、無縁仏の骨を拾い集めてこの拓魂碑として祀った経緯がある。
 一行はその碑の前に並び、吉村団長と先頭にバス1号車から田川富貴子(たがわ・ふきこ)さん、2号車から江藤キヌエさん、3号車からは和田一男さんが代表として順に花束を献花し、続いて一行全員が焼香した。弘田さんの孫、石田さんも初めて聞いた先祖の話を噛みしめるようにゆっくりと焼香し、静かに手を合わせていた。
 最後に、伊東信比古さんのハーモニカに合わせて「故郷」をしめやかに合唱した。(つづく、深沢正雪記者)

写真=川上会長、吉村団長、林副会長(上)/弘田千代太さん(石田よりこさん所蔵)


image_print

こちらの記事もどうぞ