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【ブラジル歴史物語】ジェトゥリオ・ヴァルガス=第2次政権最期の悲劇=自ら命を絶った背景とは=独裁者か、帝国主義の犠牲者か

ニッケイ新聞 2011年9月10日付け

 ジェトゥリオ・ドルネレス・ヴァルガス(Getulio Dornelles Vargas)元大統領は、言うまでもなくブラジル史上最も重要な人物の一人だろう。1883年、南大河州サン・ボルジャに生まれ、検察官、州議会議員、連邦議会議員、同州知事を経て、ワシントン・ルイス政権で大蔵大臣を務めた。1930年に革命の指導者となり、暫定政府の大統領に就任、独裁政権を樹立した。45年にクーデターによって退任するまでの15年間と、51年に民衆の選挙によって選ばれ再び政権を握り、54年に自殺するまでの期間、2度にわたり大統領を務めた。民衆へ向けた遺書を残し、公邸の自室でピストル自殺した悲劇的な最期には何があったのか。ヴァルガスが自殺に追い込まれる第二次政権期とはどのような時代だったのか—。一部の資料をもとに紐解いてみた。

 「貧者の父(O pai dos pobres)」と呼ばれ、労働法を整備し最低賃金を見直すなどの労働者保護政策を行い、天然資源事業を国営化するなど、国家主義的な政策で民主派の顔も持っていたが、一方で独裁政権を樹立し共産主義者を厳しく弾圧したことも事実で、矛盾した姿勢が多くの研究家に指摘されているものの、それまで農業を中心に基盤を築いていた経済を一新し、工業化を中心にブラジルに大きな変革をもたらした。

 1950年の選挙戦=より左傾化した政治姿勢

 「10月3日、もし私が大統領に当選すれば、就任の儀式で民衆は私とともに官邸の階段を上るのだ。そして私とともに政権を担うのだ」—。1949〜50年の選挙戦で、自身が率いる労働党(PTB)から大統領候補として出馬したヴァルガスは、都市労働者層や左翼からの支持を集めるため、かつてより左傾化した政治姿勢を打ち出し、圧倒的な動員力で民衆の支持を得て、「貧者の父」(O pai dos pobres、Estado Novo「新体制」と呼ばれる独裁政権時代に報道宣伝局が作ったヴァルガスの宣伝文句)と自らを形容、選挙活動を展開した。
 結果、対立候補の空軍大将エドゥアルド・ゴメス(民主連合、UDN)、クリスチアノ・マシャード(社会民主党、PSD)らに大きく差をつける380万票で圧勝し、ブラジル初の民衆による直接投票で、再び大統領に返り咲いた。
 工業化が進んだ40年代、中産階級層は都市部における資本主義を拡大させるため民衆を政治的、イデオロギー的に統制する必要があり、ヴァルガスのポピュリズム政治を強く望んだという背景がある。
 またポピュリスタのアデマール・デ・バッホスサンパウロ州知事(当時)に、55年の大統領選に出馬した場合に支援するなどと約束し、同知事率いる社会進歩党(PSP)の支持を得て、サンパウロ市民100万人の票を獲得したことも大きく影響した。
 UDNには、反ヴァルガス勢力の急先鋒として活動した政治家、ジャーナリストのカルロス・ラセルダが所属していた。
 ヴァルガス当選後ラセルダは、45年にヴァルガスを失脚に追い込んだクーデターに関与した軍の指導者らに対し、「独裁政権を再び樹立しようとしている」などと話して、ヴァルガスの大統領就任を阻止しようと働きかけた。
 しかし軍関係者はヴァルガス支持を表明、結局UDNとヴァルガスは和解しないまま、第二期政権が幕を開けた。

 矛盾した帝国主義との関係

 ヴァルガスはブラジルの経済成長を見据え二つの方向性を呈した。一つは外国資本とブラジル経済を結びつけること、もう一つは国の資源の保護、いわゆる「国家資本主義」の発展を目指し外国資本の独占を防ぐというものだ。
 当時のブラジルを取り巻く情勢からして、ヴァルガスが急進的な革新派の政策を取ることは困難だった。ブラジルの経済成長に不可欠だった米国資本と、完全な断絶を前提とすることはできなかった。
 しかし選挙戦で国家主義的改革を叫び、国の資源保護、外国資本の独占との対決姿勢を示してきた「貧者の父」、ヴァルガス。自分に投票した労働者層の支持基盤を失う危険を考えると、民衆との「約束」を破るわけにはいかなかった。それゆえ、外国資本との決別しないことを前提としながらも、経済的国家主義は維持せざるを得なかったのだ。
 51年、国内外の投資を妨げないことを目的とした「経済成長を目指した伯米合同委員会」が発足、議会でも同様の姿勢を明確にしている。
 政府は、米国の政府系機関である米国輸出入銀行エクシムバンク(Eximbank)、世界銀行(Banco Mundial)の融資を基盤に、産業拡大のために不可欠なエネルギーや交通などのインフラ、製鉄、石油化学などに投資する計画を立てた。また52年には、経済成長国家銀行(BNDE、現BNDES=国立経済社会開発銀行)を設立、計画実行を目指した。
 国連ラテンアメリカ・カリブ経済委員会(Comissao Economica para America Latina、Cepal)とジェトゥリオ・ヴァルガス財団によると、46〜55年は、毎年平均8・5%の経済成長を記録した時期だった。

 「石油は我らのもの」=ペトロブラス社設立

 国営石油会社「ペトロブラス」(Petrobras)が設立されたことは、間違いなくヴァルガスの国家主義政策の象徴といえるだろう。
 51年にヴァルガスが法案を発表すると、石油の国有化を主張するナショナリスタと、石油の採掘権を全面的に海外資本に渡すべきというUDNとの間で激しい論争が起こった。UDNは、工業も農業も、市場の諸力に従って自由に発展すべきという自由主義的な経済政策を支持し、工業を優遇する国家の経済への介入に異議を唱えた。
 しかしその後、石油の国家独占を訴える大規模な運動「Petroleo e Nosso(石油は我らのもの)」が繰り広げられ、中間層、労働者層、軍人、学生、共産主義者などあらゆる階層の国家主義者たちが参加した。
 その結果、法案は53年10月3日に可決され、国外の石油輸入などで赤字に陥っていた国家経済の問題の軽減を目指し、ペトロブラスは設立された。驚くべきことだが、設立後最初の3年間でペトロブラスは、39年に最初の採掘が始まって以来、ブラジルが精製したすべての石油の3倍に当たる量を精製している。

 政権崩壊の危機

 当時ブラジルに参入していた外国企業は、クルゼイロで獲得した利益を外貨に換え自国へ違法に送金をしていた。そのため政府は52年1月、送金法(Lei de remessa de lucros)という法律を制定し、外国企業はブラジルで得た利益を自国に送金できるのは8%と決定した。
 しかしそれが米国政府と世界銀行の反感を買い、52年以降、ブラジルへの融資に否定的な態度を見せるようになった。
 そこで、紙幣の発行による産業への融資拡大を図ったが、その結果激しいインフレが起こった。賃金の上昇が物価の上昇に追いつかず、ポピュリズム体制の基盤の一角を占めていた労働者層は大打撃を受け、購買力は著しく下がった。
 53年3月、サンパウロ市の労働者300人が物価の引き下げと賃金の上昇を訴え29日間のストライキに突入。労働組合の幹部らも阻止することができなかった。
 反ヴァルガスの軍人や政治家に支持され、ラセルダ率いる「トリブーナ・ダ・インプレンサ」(Tribuna da Imprensa)をはじめとした保守系各紙は、ゴラールを、最終的にはヴァルガスを攻撃するために策略を練った。
 企業家と政治家の癒着や裏取引を告発し、ヴァルガスがクーデターを企んでいると報道した。またラセルダは、53年8月にランテルナ・クラブ(Clube de Lanterna)と呼ばれる集団を組織し、ヴァルガスを打倒する目的で、次期大統領選挙に向けた反対運動を展開していったが、そこにはUDNの議員が多数所属していた。
 まもなく、ゴラールが都市労働者の賃金の100%引き上げを認めるという噂が立った。
 これに反発したのが、軍隊の若手将校たちだ。54年2月、陸軍大佐42人、中佐39人が「コロネルのマニフェスト(Manifesto dos Coroneis)」を発表。軍人の基本給の低さ、軍需品整備における政府の怠慢などを訴え、明らかに反共産主義的内容だった。
 数日後ゴラールは、商人や労働者の最低賃金を100%引き上げることを提案。異議が集中しヴァルガスはゴラールを解任、反対勢力はヴァルガスに標的を定めた。
 このような状況の中、反撃に転じようとしたヴァルガスは54年のメーデーの日に演説、ゴラールを称賛し、最低賃金の100%引き上げを宣言した。しかしこれが政権崩壊の決定打となった。

 運命の自決の日「8月24日」

 この労働者の賃金引き上げは、企業家らが連邦最高裁で無効にしようとしたが、問題はこれだけではなかった。ペトロブラス設立に反発した米国がコーヒーの輸入量を大幅に減らし、外貨収入が激減したのだ。
 反対勢力は過激化した。ラセルダは以前よりも勢いを増して新聞、テレビ、ラジオなどあらゆるメディアを利用し、厳しいヴァルガス批判を展開。政治家としてだけではなく、個人の人格も否定するような批判にまで及んだ。アルゼンチンとチリを含めた3国で「反米ABC同盟」を結び、ブラジルに「労働組合主義体制」をもたらそうとしているなどと発表もした。
 54年8月6日未明、ラセルダがある政治集会から帰路につき、リオ市コパカバーナのトネレイロ通りの自宅前で車に下りたところ、待ち伏せされていた暴漢2人に襲われた。ラセルダは足に軽傷を負ったが、同行していたルーベンス・ヴァス空軍少佐が射殺される事態となった。
 この一件は「トネレイロ事件」として大反響を巻き起こし、国民に衝撃を与えた。6日、空軍の将校クラブは臨時総会を召集、警察の手に事件の捜査を任せると政治的な圧力でもみ消される可能性があるという見方から、空軍が特別捜査本部を設置するに至った。
 捜査の結果、犯人はヴァルガスの護衛隊長、グレゴリオ・フォルトゥナトに雇われたガンマン2人だったことが判明。
 22日、空軍はヴァルガスの退任を要求、翌日陸軍も加わり、反ヴァルガスの多くの軍人が署名した「国家へのマニフェスト」(Manifesto a Nacao)を提出した。
 23日夜の最後の閣議で、ヴァルガスは軍人の閣僚らに、「もし軍が治安を維持するのであれば、一時的に大統領から退く」という妥協案を提示。「もし軍隊が宮廷に侵入することがあれば、そこに自分の屍を見出すことだろう」と告げたと言われている。
 陸軍大臣のゼノービオ・ダ・コスタはヴァルガスの提案を将校らに伝えるも、受け入れられなかった。将校らの要求は「退陣」だった。
 24日の朝、コスタ自身の口から、陸軍幹部の意志が変わらないことを伝えられたヴァルガスは、自室に行き、ピストルで心臓を打ち抜いた。

 民衆の暴動とその後

 ヴァルガス自殺の知らせは10分後には電波に乗って全国に流された。国民のショックは深く、各地で暴動が起こった。24日当日、リオの大通りではヴァルガスの死を伝えるマニフェストが大々的に行われた。反ヴァルガスの新聞は攻撃の対象となり、米国大使館や空軍基地は脅迫された。いくつかの州都では米国領事館が石を投げられる被害を受けた。ラセルダは攻撃を恐れて国外へと姿を消した。
 次期大統領には副大統領だったカフェ・フィーリョが就任。55年の選挙で、「50年の進歩を5年で」とのスローガンを打ち出したPSDのジュセリーノ・クビシェッキが、副大統領はPTBのジョアン・ゴラールが当選し、ヴァルガス派が勝利を収めた。
 再び敗北したUDNは両者の就任を阻止しようとし、ラセルダは「トリブーナ紙」で、候補者は共産主義者、貧困層に支持されたとし、彼らにブラジルを統治されてはならない、と書いた。
 しかし、反対派の策動を察知したクビシェッキ側の軍首脳部が、「予防クーデター」を断行。軍隊が出動して大統領公邸や政府の施設を占拠した。こうして56年、クビシェッキ政権が誕生、外資導入と工業化を積極的に推進するとともに、内陸部の発展促進を目的にした新首都、ブラジリアの建設が進むこととなる。

【参考文献】
『ブラジルの政治—新しい大国への道』斉藤広志、サイマル出版会、1976年
『Historia do Brasil』Luis Cesar Amad Costa, Leonel Itaussu A. de Mello、Editora Scipione、1994年
『Historia do Brasil -Colonia, Imperio, Republica』Francisco de Assis Silva、Editora Moderna、1992年
『Brasil 500 Anos 2』Editora Abril
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