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県連移民のふるさと巡り=ガウチョの国に友訪ねて=亜国、ウルグアイ編=(3)=人生変えた同胞と再会=平田さん「最高の人生」

ニッケイ新聞 2011年11月5日付け

 ウルグアイの治田守さんと楽しげに会話していたのは、一行の大和司さん(86、徳島)だ。35年12月、「らぷらた丸」で家族と共に10歳で渡伯し、フェルナンジアス、マリリアなどを経て、トラックを購入しモジで運送業に従事、現在は聖市に住む。「ウルグアイにいる日本人なんて珍しいからね。興味があった」と顔をほころばす。「旅行好きだった親父に似て、私も出歩くのが好きなんです」。
 コチア青年の神林義明さん(75、長野)は21歳で、57年に来伯した。「コチア青年の仲間がまだたくさんいる。モンテビデオでも会えて嬉しい」と笑顔を見せた。
 モンテビデオ滞在中に「人生を変えた大事な友人」と51年ぶりの再会を果たした参加者がいる。田中義文さん(71、島根)=ミナス州サンゴタルド在住=だ。ふるさと巡りは2回目で、妻の峯子さん(64、愛媛)と参加した。
 友人の名は平田臣吉さん(71、島根)。小学校時代の同級生だ。現在モンテビデオから約90キロのサンホセ・デ・マヨ市に住んでいる。「私が今ブラジルにいるのは彼のおかげ」と断言する田中さん。
 渡伯以前、田中さんは「日本を出よう」と渡米を漠然と夢見ていた。ある時バスに乗り遅れたため、島根の都市部から故郷へトラックの荷台に乗って戻ってきていた平田さんは、たまたまヒッチハイクで都市部へ向かおうとしていた平田さんと偶然会った。
 これが「運命の再会」だった——。田中さんは1カ月後に北海道開拓移民の研修に入る予定だった。
 その時、平田さんが「俺はウルグアイへ行く。許可が出次第、出発する」と宣言したことに衝撃を受けた。当時、ウルグアイがどこにあるのかも知らなかったが、思わず「自分も行けないか」と勢いで言った田中さんに、平田さんは冷静に「わからない。それならブラジルへ行ったらどうだ」と助言した。
 それまでまったく選択肢になかったはずのブラジルだったが、その言葉を聞いて、田中さんはすぐに県庁に申し込み、60年にコチア青年として渡伯した。
 長年平田さんとの再会を願っていた田中さんは、今回のふるさと巡りでモンテビデオ訪問が予定されていることを知り、すぐに申し込んだ。
 その後は連絡先を何とか入手しようと模索していた田中さんはある時、新聞のコロニア欄にあった南米ゲートボール大会の記事で、ウルグアイの国旗を掲げている平田さんの写真を見つけた。
 また田中さんの妻・峯子さんはインターネット検索中に、平田さんの息子と思しき人物について書かれた卓球の試合の記事を見つけた。記事の顔写真が平田さんに瓜二つで、「父は第2次大戦が終わったとき5歳だった」とのコメントがあるのを読み、「彼の息子だ」と確信した。
 記事を書いた記者に問い合わせると、数日後に息子本人から「父はあなたをよく知っています」という電話が入り、平田さん本人とも電話越しに「元気か!」と51年ぶりに会話したという。
 ふるさと巡り当日は移住以来、初めて顔を合わせる機会となった。田中さん夫妻は一行とは別行動を取り、治田さんが運転する車で平田さんの自宅へと向かった。平田さんが同地に渡ったのは61年。子供は全員独立し、花作りを営んでいたが現在は引退している。
 平田さんはいま脳梗塞を患い遠出をすることは困難なものの、思いのほか元気な様子を見せて再会を喜び合い、お互いに「最高の人生だった」と意気投合したという。(つづく、田中詩穂記者)

写真=平田さん宅で再会を果たした田中さん(右端)、平田さん夫妻(中央)。左端は治田さん

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