第11回=沖縄方言で胸を張る=ルーツ目覚めるブラジル二世

ニッケイ新聞 2011年12月10日付け

 ブラジル最大手エスタード紙の論説委員、保久原ジョルジ淳次さん(65、二世)は息子を連れて世界のウチナーンチュ大会に初参加した。
 彼は今年の講演会で「4年前まで自分が日系人だと意識したことはなかった」とブラジル人性を強調していたが、今回「まるで家に帰ってきたみたいだ」と興奮している様子を見て驚いた。明らかにルーツ意識に目覚めていた。
 父正輝さん(1905—1966)は臣道聯盟員というだけで監獄に送られたが、無罪判決を受けて釈放された。ところが『Coracoes Sujos』(国賊、Fernando Morais, Campanhia das Letras、2000年)が一部の特殊な事件を誇張して、臣道聯盟が組織的にテロ活動をしたかのように描いた。そのため聯盟員を父に持つ多くの二世は親の歴史を恥じるようになっていた。
 保久原さんは「父はテロリストではない。特殊な事例ではなく、父のような普通の聯盟員の姿、想いを描きたかった」と考え、『O Sudito (Banzai, Massateru)』(臣民、Terceiro Nome、2006年)を出版した。
 ブラジルでは日本語をほぼしゃべらない保久原さんだが、那覇では積極的に日本語で話しかけてきた。なにかが変わった。自分が日本語をしゃべっている姿を息子に見せたいのかもしれない。
 聞けば、幼少期には家庭内では沖縄方言で人格形成したようだ。「母は家の中でウチナーグチだけだった。それが日本語だと思って日系の友達にしゃべりかけると変な顔をされ、ああ、これは方言だったんだと子供心にコンプレックスを感じた」と思い出す。
 沖縄県系人の密集地域に生活している二世には沖縄方言しかしゃべれない世代があり、他の日系二世から差別を受けた。沖縄子孫ゆえの引け目だ。家庭内言語がウチナーグチであれば、日本語もポ語も〃外国語〃に過ぎず、同じ学習の苦労をするならポ語に集中して一般社会でより高い地位に就いた方がいい——そんな考え方はこの世代には珍しくなかったという。
 移民の家庭では、親に欠けている何かを子供が補おうとする傾向がある。父が右よりの日本愛国者だった反動か、保久原さんはUSP時代に左翼学生運動に走り、結果的に同じように監獄に叩き込まれた。各家族には「精神的な振り子」という作用が働いている。父が右に振れ過ぎれば、バランスを取ろうとして子供が左に振れて、家族として安定を保つような心理作用だ。
 最終的にはあるべきところに落ち着く。親が日本の保守であったのと同じように、保久原さんはブラジルの保守言論の中軸を支えるエスタード紙の論説委員に上り詰めた。国は違えど、思想傾向には血筋を感じさせる。
 保久原さんは続ける。「前夜祭の帰還パレードで沿道のご婦人に、方言で語りかけたら『この人すごい。私が使わなくなった言葉をしゃべっている?!』と驚かれたんだ」との話を披露した。沖縄では方言に敬意が払われることを体験し、長年の引け目意識から開放されたようだ。
 息子タデウ・直紀さん(なおき、29、三世)を指差し、「息子は僕のような言葉のコンプレックスはとっくに卒業し、新しいウチナー意識を持ち始めている」とうれしそうにいう。直紀さんも「本当にきてよかった。感動したよ」と繰り返す。
 保久原さんが日系人の自覚をもったのは確かに百周年直前かもしれないが、幼少時からすでに県系意識はあった。講演会で彼が言った言葉は、そういう意味だったようだ。
 二世は終戦後、勝ち負け抗争の影響もあって一般社会から日系人であるだけで引け目を感じたが、沖縄県系二世はもう一つ沖縄県系であることのコンプレックスも乗り越えなくてはならなかった。
 ところが、世界のウチナーンチュ大会では、むしろそれゆえに尊ばれることが分かり、二世には精神のカタルシス(浄化)作用が生れたようだ。(深沢正雪記者、つづく)

写真=息子のタデウ・直紀さんと保久原ジョルジさん

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