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特別寄稿=望郷阿呆列車=ニッケイ新聞OB会員 吉田尚則=(終)=列島縦断2千キロ

ニッケイ新聞 2012年2月7日付け

 盛岡駅を出ると、数珠つなぎのトンネルが待っていた。八戸駅まで、窓外にまとまった風景が展開されることもなくトンネルに次ぐトンネル。
 常に最短コースをたどる新幹線は概して隧道の連続だが、時間にして30分弱のこの区間にはずいぶん多い。最後のトンネルを通り抜けると、そこはもう八戸市域だった。
 同地から青森までもトンネル数は少なくないが、意に介するふうもなくレキレキコーコーと前進し、ついに9月8日午後5時19分、はやて号は新幹線終着の新青森駅に定刻到着した。
 鹿児島中央駅からここまで乗車時間は合計11時間。少し感慨めいたものはあるが、達成感というほどのものでもない。軽い疲労感だけが残った。
 日本列島のサイズを、いわば体感できる旅でもあった。狭いといえば狭い国土である。自分のような者は移民になってよかったのだ、スンダランド北上現代派として新大陸に渡ったのは何か因縁あってのことだろうなどと、漠然とそんな思いが頭をよぎった。
 では「我々は何処へ行くのか」。移民としての自分にのしかかる命題が、まだ残されていた。 ブラジル日本移民史料館づくりにも協力した文化人類学者、梅棹忠夫国立民族学博物館館長はかって、「われ新大陸の文明づくりに参加す」と移民を励ます言葉を残した。
 わたしは愚直にも、この言葉を信じ実践すべきではないかと考えている。200万に近い子孫を引き連れて我々は、ブラジル文明が醸成される現場でその作業に参画し、それぞれの民族の優れた文化の導入と融合による新たな混淆文明の創造に貢献すべきではないかと。
 新青森駅から最後の宿泊地に向かう特急にはまだ時間が早い。駅の南方はそろそろ夕闇のヴェールを下ろしかけている。その静まったあたりに三内丸山縄文遺跡がある。 縄文文明は古代世界の四大文明にも匹敵しようと唱える梅棹博士によれば、日本の文明はこの三内丸山から始まった。数百人が暮らす集落では、狩猟採集ばかりでなくクリの栽培も行われていた痕跡がある。
 歴史教科書の書き直しが必要とされたほどの新発見であった。翡翠や黒曜石など同地では産出しない装飾品、実用品の類も多く発掘され、また子供の遺骨が集落の近くに埋葬されていたことも、縄文人の愛情の深さと温かさを感じさせる一例となろう。
 北東北には縄文遺跡がずいぶん多いが、弥生時代の圃場の遺構も発見されている。三内丸山からさらに南方の青森県田舎館村には、2千年前とみられる弥生中期の水田跡がある。
 北緯40度以北という寒冷地での稲作は、これも日本史をぬりかえるに十分な実例となった。津軽平野を挟んだ田舎館の向こうには岩木山が聳えている。弥生人たちはこの名峰を仰ぎながら、先住の縄文の人々と交わり稲の栽培を手ほどきしていたことだろう。    「望郷阿呆列車」最後の走行は、新青森駅発午後6時33分の上り寝台特急あけぼのであった。グリーン席だからと自信を込めて座ったのが寝台車下段のベッドで、しかも乗客6人の入れ込み。やはりこれが自分の身の丈に合った座席なのだと、ひとり苦笑した。
 旅の始まりの大館駅を指呼の間に望める、最終目的地の大鰐温泉駅までは所要時間40分くらいだ。中空に目をやりながら我慢して座り続け、午後7時14分、ジャパン・レイルパス通用の7日間の旅を終えた。
 奥羽本線大館駅を振り出しに本州、九州をぐるり周遊して、延べ走行距離は4216・3キロ(JR営業キロ数)。ブラジルでいえばマナウスーポルト・アレグレ間を超す、それこそ阿呆のような長旅であった。
 「不二や」という田舎じみた名の温泉ホテルに着いて、すぐ大浴場に飛び込んだ。夕食の時間帯で辺りには誰もいなかった。湯ぶねに浸かりながら、不意に思い至った。 望郷の根幹をなすのは母なる存在そのものではなかろうか。それ以上考えるのは億劫になり、また小声で呟いてみた、ゴクラクゴクラクー(2011年12月記す)。



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