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南仙子の『同素体』廃刊に=日本語の砦がまた一つ=48年間欠かさず月刊で=「2人だけ、体力続かない」

ニッケイ新聞 2012年4月6日付け

 日本語の最後の砦がまた一つ崩れた。一世の高齢化が叫ばれ、俳句人口激減が指摘されて久しい中、渡部南仙子(本名=重、1908—1990年、福島)が63年に始めた伝統ある俳誌『同素体』が、3月の刊行(昨年11月号)をもって廃刊となった。48年間欠かさずに毎月刊行され、通巻580号を数えた。現代俳句のリーダーの一人といわれた南仙子の死後も20年余も発行が続けられたが、ついに編集に関わる同人が2人だけとなったことから廃刊が決断された。その一人、畔柳道子さん(84、愛媛)は「残念だが致し方ない。体力が続かなくなりました」と声を落とした。

 最終号の「同素体歴」には次の悲痛な言葉が並んでいる。「私の頭に浮かんでくるのは、あの豪放でいて涙もろい、率直でいて多感、多彩なあの師の面影である。(中略)『いずれは無くなるであらうコロニア俳句だが、今、現在を一生懸命に詠もうよ』と言った師の言葉を思い出しながら、胸痛む思いでこの最後の俳誌の稿を書き終わります」。
 南仙子は1928年に力行会員として渡伯し、パラガス・パウリスタ管内の文化植民地に配耕され、38年には『椰子樹』創立に参画した。戦前戦後を通じて日本語教育に献身する傍ら、プ・プルデンテのコチア産組に勤務し、ピニェイロスの本部で下元健吉専務や山中弘移民課長らも参加した「芋の花吟社」を始めた。52年から日伯毎日新聞社の日伯俳壇の選者を務め、『蜂鳥』の富重かずまさんに譲った。
 63年にサンパウロ市で南仙子を中心に14人の創立メンバーにより俳句結社『同素体』が始められ、70年代には20人余りが参加した。「物質は異なる形をしていても、突き詰めれば元素は同じ」との物理学用語にちなみ、「人間も個性はいろいろだが元は一緒」という個性重視の思いを表現した。
 南仙子の俳号は「ナンセンス」をもじったもので、他に川柳では「亜舞凡々」(甘いボンボン)、自由詩では緑野独太(緑のチンタ、自由詩は必ず緑色のインク=チンタで書いていた)という筆名も持つ。武本由夫さんらと『コロニア誌文学』立ち上げにも協力、67年にはブラジル俳人協会設立にも奔走した。
 90年に南仙子が亡くなったが、刊行は続けられた。もう一人の最後の同人宮腰陽子さんの夫巴夫(ともお、享年83)さんはワープロを使って活字・製本を99年から協力してきたが、昨年10月に病気で亡くなった。編集に関わる男手がなくなったこともあり廃刊が決断された。
 南仙子が父の代から投稿していた日本の俳誌『曲水』(渡辺水巴創刊)もまた、期せずして昨年12月(1117号)をもって廃刊となったのは不思議な俳縁だ。

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