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(6)=戦前の思い出に花咲かせ=同船者と53年ぶりに

ニッケイ新聞 2012年4月19日付け

 『歩み』によれば、バウル—に領事館が設置されたのは1921年1月。28年には市内に22家族、30年には34家族が住み、31年頃から日本人植民者が棉栽培のため借地を始めた。
 33年にノロエステ、パウリスタ、ソロカバナ三線在住日本人の連絡機関として領事館内に連合日本人会が組織され、バウル—の日本人会の創立は36年2月。2年後は「バウル—中央日本人会」が発足した。
 そんな時代にバウル—に住んでいたのが参加者の草川一郎さん(79、二重国籍)=マリンガ在住=だ。聖州ドアルチーナ生まれで、1935年から5〜6年同地で過ごしたことから、バウルー在住の市川千恵子さん(70、二世)と会話を弾ませていた。
 千恵子さんの父はバナナの行商をしており草川さんの父も店を経営しながら手伝った。バウルーから約50キロ離れたジャウー市で生産され、汽車で運ばれてきたものを売ったという。
 「バナナは早く熟れるから早く売らないといけないので、大きな声で二人して売り歩いていましたよ。あの頃はコーヒーも棉もよく取れた」(草川さん)
 戦後、草川さんは家族と共にマリンガーへ。41年にバウルーで生まれた千恵子さんを伴い、市川さん一家も同時期に移り顔見知りになった。
 「あの頃マリンガはセントロしかなく、まだまだ田舎。道はアスファルトじゃないから、赤土で洗濯物が真っ赤になった。道路も汽車もなくバスもない。バウルーに帰りたいと思っていましたね」と笑う千恵子さん。草川さんも「我々の親たちの時代は本当に苦労したはず」としみじみ。
 千恵子さん一家は1年半後に再びバウルーに戻ったが草川さん一家はマリンガーに留まり、野菜作りやバール、パダリアを経営するなどした。
 天理教の教会でたまに会うこともあったというが、千恵子さんの夫でバウルー生まれの哲夫さんとは初対面。
 二人は同地で結婚後、養鶏や不動産業などを営み、5年前に引退した。哲夫さんはかつて文協会長も務めたが「日本語ができず苦労しました」と3人は談笑していた。
 バウルー在住の小坪崧さん(74、福岡)と一行の川口春恵さん(愛媛、80)=モジ在住=は同船者で、半世紀ぶりの再会。59年2月「チチャレンガ号」で着伯。小坪さんは当時20歳で家族は10人だった。
 「お父さんの面影があるなって、見てすぐに分かった」と喜んだ川口さん。笑顔で写真に収まっていた。(つづく、田中詩穂記者)

写真=和気藹々と会話を楽しんだ草川さん、市川さん夫妻(左から)



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